・反日日本人という自虐趣味の人はいるけれど、それに引きずられて国民全部が錯覚してはいけない!

日露戦争は、ロシアがわざわざモスコーからシベリアを渡って、旅順や朝鮮まで来るから起こった戦争で、日本が外国を侵略しようとして起こった戦争ではない。いわば、ドンドンと盗賊が扉を叩くので、妻子を守るために戦った戦争だった。
・日米戦争は、アメリカがわざわざワシントンから太平洋を渡って、グアム、フィリピン、そして中国まできたから起こった戦争で、日本が外国を侵略しようとして起こった戦争ではない。これも盗賊が東から来て、やむを得ず戦った戦争だった。
・遥か彼方の国が攻めて来るのだから、「私の国には平和憲法があります」などと寝言を言っても相手は「なんだ、それは?お前の国の中のことだろう。俺は関係ない」と言う。  憲法は国内法だから国際紛争にはなにも意味がない。
・戦後、70年、日本が戦争をしなかったのは、独立国なのに日本列島に世界最強のアメリカ軍が駐留し、近海に水爆ミサイルを積んだポラリス原潜が配備されているからだ。
平和憲法を持っているとか、平和憲法があったから平和が守れたというのは全くのウソである。
・戦前、軍部が独走したから戦争が起こったというのも間違いだ!  ロシアが旅順を軍港にし、佐世保と台湾まで進出すると言ったからロシアと戦争になったし、アメリカが太平洋を渡って日本まで来たから戦争になった。 
アメリカと戦争したから310万人の同胞を失っただけで済んだが、戦わなければ5000万人は殺されていただろう。 
・その証拠が広島・長崎・東京大空襲という事実だ。
・食料や石油のような「生活必需品」、「国を守るための最低限のもの」を禁輸することは国際的に許されていない。 それをアメリカがやった。
反日日本人という自虐趣味の人はいるけれど、それに引きずられて国民全部が錯覚してはいけない!





















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普通の歴史(追補) 侵略戦争とはなにか?(3) 憲法9条も軍部独走も関係なし
「201409031059.mp3」
 日露戦争、日米戦争という明治維新からこれまでに日本が戦った主要な二つの戦争は、「平和憲法があるかどうか」とか「軍部が独裁だったかどうか」などまったく無関係のことだった。
 日露戦争は白人の国、ロシアがわざわざモスコーからシベリアを渡って、旅順や朝鮮まで来るから起こった戦争で、日本が外国を侵略しようとして起こった戦争ではない。いわば、ドンドンと盗賊が扉を叩くので、妻子を守るために戦った戦争だった。(極めて明瞭)
 日米戦争は白人の国、アメリカがわざわざワシントンから太平洋を渡って、グアム、フィリピン、そして中国まできたから起こった戦争で、日本が外国を侵略しようとして起こった戦争ではない。これも盗賊が東から来て、やむを得ず戦った戦争だった(きわめて明瞭)。
 もし戦前に「平和憲法」があって日本に軍隊がいなくても、戦争は起こった。 遥か彼方の国が攻めて来るのだから、そんな時に「私の国には平和憲法があります」などと寝言を言っても相手は「なんだ、それは?お前の国の中のことだろう。俺は関係ない」と言うだろう。  憲法は国内法だから国際紛争にはなにも意味がない。
 日露戦争の時にロシア皇帝ニコライ二世が言ったように「日本は戦争しない。ロシアの方が強いから」と言ってどんどん来たのと同じように、「日本に平和憲法があっても関係ない。俺たちは日本を取る」と言うだろうからである。
 「日本人が平和憲法を定めたから、外国は攻めてこない」などという矛盾した論理では平和というむつかしいことを守ることはできない。 
 戦後、70年、日本が戦争をしなかったのは、独立国なのに日本列島に世界最強のアメリカ軍が駐留し、近海に水爆ミサイルを積んだポラリス原潜が配備されているからだ。
平和憲法を持っているとか、平和憲法があったから平和が守れたというのはウソである。
 日本はアメリカ軍という自国の軍隊ではない、いわば世界一強い傭兵的な部隊を持ち、さらに核武装していた。
 戦前、軍部が独走したから戦争が起こったというのも間違いだ。  ロシアが旅順を軍港にし、佐世保と台湾まで進出すると言ったからロシアと戦争になったし、アメリカが太平洋を渡って日本まで来たから戦争になった。 
 アメリカのルーズベルト大統領は「アジア人は召使に使っても良いが、日本の黄色い猿だけは殺せ」と言っていた。
 だから、ロシアと戦争をしなければロシアの植民地になって日本の若者は両手首を切られたし、アメリカと戦争したから310万人の同胞を失っただけで済んだが、戦わなければ5000万人は殺されていただろう。   
 その証拠が広島・長崎・東京大空襲という事実だ。
 アメリカとの戦争の前、日本はアメリカを信用し、アメリカから石油や鉄鉱石などの原料を約7割ほど輸入していた。  それをアメリカは中国へ進出しようとし、それに中国が内通したので、日本に対して石油とくず鉄の禁輸を行った。  これは「宣戦布告」であるとされている。  
 つまり、食料や石油のような「生活必需品」、「国を守るための最低限のもの」を禁輸することは国際的に許されていない。  それをアメリカがやった。
 ここでは、ロシアが悪い、アメリカが悪いと言いたいのではなく、そんなことを言っても意味がない。
 ここでは「事実をそのまま認めよう。 そうしないとまた戦争になる」ということを示したいだけだ。
 平和憲法があろうとなかろうと、軍部が暴走しようとしまいと、外国が遠くからやって来たら戦争になる。
 日本は自ら戦争を仕掛けたことはない。 日本列島は実に住みやすく2000年も住んでいるので、日本人は海外に出たくない。 外国語は不得意、安全指向でシャイな性格、日本の中で生活する「内弁慶」の国だった。それは今でもそうだ。
 長い2000年の歴史で日本が外に出ようかなと思ったのは、豊臣秀吉の晩年ぐらいなもので、南に行けば豊かなフィリピンもインドネシアもあるのに、行かなかった。  その点ではロシア人やアメリカ人のような白人(アーリア人種)とは全く違う考え方を持っている。
 繰り返しになるが、日本が戦争をしたのは、平和憲法がなかったからでもなく、軍部が独走したからでもなく、単に「白人が遠くから「ドケドケ」と野蛮に侵入してきた」からにほかならない。
 だからこれからも平和を守るということは、平和憲法を守ることでも、軍隊を持たないことでも(現実はすでに持っている)、核兵器をもつかどうかも(現実はすでに持っている)でもなく、「外国が来なければ戦争にならない」ということだけである。
 自虐趣味の人はいるけれど、それに引きずられて国民全部が錯覚してはいけない。
平成26年8月24日)  武田邦彦

・ヘレン・ミアーズの昭和23年の著書『アメリカの鏡・日本』は、50年近くの間、隠蔽したのだ!

・「いまだに日本が占領下の厳しいGHQ検閲によるマインドコントロールから抜けきれないでいることは悲しむべきことです」
・日本人に罪悪感を植え付けた宣伝計画(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム=WGIP)の弊害は大きい!
・戦争に負け、占領国民が施される「洗脳」とはどんなものか。
・われわれの父祖が直接体験した出来事とその影響は、学校教育ではほとんど触れられず、実態はあまり知られていない。隠蔽されている。
・GHQは検閲を実施する一方で、真珠湾攻撃4周年の昭和20年12月8日から、10回にわたって全国の新聞に、日本の侵略と悪行を強調する連載記事「太平洋戦争史」(GHQ民間情報教育局提供)を掲載させた。
・翌9日からは、「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにした「真相はかうだ」をNHKラジオで放送させた。 米国の原爆投下を正当化し、日本の指導者らが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然だとする「とんでもない内容」だった。
・GHQは検閲指針の項目の中に、
東京裁判への批判」
「GHQが憲法を起草したことへの批判」
などとともに
「検閲制度への言及」を盛り込んだ。 
自分たちが徹底的な検閲を行い、メディアを取り締まっていることを日本国民に知られないようにしたのだ。
・GHQの諮問機関メンバー、ヘレン・ミアーズの昭和23年の著書『アメリカの鏡・日本』は、日本では翻訳出版が禁じられた。訳書が出版されたのは、実に半世紀近くたった平成7年のことである。
・ヘレン・ミアーズの昭和23年の著書『アメリカの鏡・日本』は、50年近くの間、隠蔽したのだ!













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知られざる「GHQの洗脳」歴史学ぶ自民の新組織に期待 
阿比留瑠比  2015.11.20

オウム真理教の信者のマインドコントロールはよく知られていますが、6年8カ月にわたる占領期間中の日本人に対するマインドコントロールについてはあまり知られていません」
 この言葉は、自民党稲田朋美政調会長が弁護士当時の平成8年8月、産経新聞の連載企画「教科書が教えない歴史」に執筆した記事の書きだしである。
稲田氏は連合国軍総司令部(GHQ)による言論統制や、日本人に罪悪感を植え付けた宣伝計画(ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム=WGIP)の弊害を指摘し、記事をこう締めくくっている。
「いまだに日本が占領下の厳しい検閲によるマインドコントロールから抜けきれないでいることは悲しむべきことです」
  問題意識が現在まで持続しているのだろう。  稲田氏は、自民党が今月29日に開く結党60年記念式典に合わせて設ける日清戦争以降の歴史や極東国際軍事裁判東京裁判)、GHQによる占領政策などを学ぶ安倍晋三総裁(首相)直属の新組織づくりを主導してきた。
 組織トップには谷垣禎一幹事長が就くが、今後の活動に期待したい。

戦争に負け、占領国民が施される「洗脳」とはどんなものか。
 われわれの父祖が直接体験した出来事とその影響は、学校教育ではほとんど触れられず、実態はあまり知られていない。
 その意味で、自民党の新組織がGHQの占領政策について議論し、そこから日本の現状について考えることには大きな意義がある。また、メディアのあり方、報道姿勢にも少なからず関わってくる問題でもある。
  例えばGHQは稲田氏が指摘した検閲を実施する一方で、真珠湾攻撃4周年の昭和20年12月8日から、10回にわたって全国の新聞に、日本の侵略と悪行を強調する連載記事「太平洋戦争史」(GHQ民間情報教育局提供)を掲載させた。
  翌9日からは、「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにした「真相はかうだ」をNHKラジオで放送させた。米国の原爆投下を正当化し、日本の指導者らが戦争犯罪人の指名を受けるのは当然だとする内容だった。
単行本化された「太平洋戦争史」については、文部省(現文部科学省)に各学校に購入を求める通達を出させることもしている。
  一方でGHQは検閲指針の項目の中に、「東京裁判への批判」「GHQが憲法を起草したことへの批判」などとともに「検閲制度への言及」を盛り込んだ。 自分たちが徹底的な検閲を行い、メディアを取り締まっていることを日本国民に知られないようにしたのだ。
「占領軍が被占領国民の歴史を検閲することが、本当に民主的であるかどうか。アメリカ人はもっと議論する必要がある。私たち自身が日本の歴史を著しく歪曲(わいきょく)してきた」
 こう率直に記したGHQの諮問機関メンバー、ヘレン・ミアーズの昭和23年の著書『アメリカの鏡・日本』は、日本では翻訳出版が禁じられた。訳書が出版されたのは、実に半世紀近くたった平成7年のことである。
「老いも若きも幅広く、虚心に学ぶということだ」
 谷垣氏は新組織について周囲にこう語り、特に提言などをまとめることはしない考えだ。
 確かに70年近く前のことを、今さら恨みがましく言い募るのはみっともない。
 ただ、何があったか、それが現在にどうつながっているかはきちんと押さえておいた方がいい。(産経論説委員兼政治部編集委員

・「日本のサラ金が成功したのは、日本人が借りたお金を返すという文化を持っていたからだ」

・日本人は誠実で真面目である。知らないのに知ったかぶりをして教える文化と、知らないことは知らないという文化とどちらが良いだろうか?
・「日本のサラ金が成功したのは、日本人が借りたお金を返すという文化を持っていたからだ」










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「日本の文化」を大切に その1 大衆の文化
武田邦彦  2014年02月22日 19:25

 普通は右寄りの人が「日本の文化」が好きで、左寄りの人はとかく理屈が先だってヨーロッパ文化を大切にしがちである。もっと簡単に言うと右寄りの人は「情・体」で、左寄りの人は「知」。
つまり、「知・情・体」と言われる人間の構成要素のどこに重きを置くかによって右になったり左になったりする。
 ところが戦争が終わった後の状態を見ると、左の人は相変わらずアメリカ・ヨーロッパだが、右寄りの人は戦争に負けて日本文化に自信を失いアメリカにすり寄った。その結果、戦後の日本はアメリカ一辺倒になってしまった。
 それでは、日本の文化とアメリカの文化を比較すると、どちらが良いのだろうか?
 簡単に比較してみて、また一つ一つは機会があったらより細かく整理をしていきたいと思う。

その1 道を聞いた場合
 アメリカで道を聞くと、「知らなくても教えてくれる」。私は最初、このことを知らなかったので、何回かひどい目にあった。道に迷って通りすがりの人に聞くと、自信たっぷりに、「少し行ったら右に曲がって・・・」と親切に教えてくれる。
それを鵜呑みにしてそのまま行くと全く違う。アメリカでは道を聞いても「知りません。すみません」と言わないことが多い。最近、インドネシアでダイバーを船に収容しないで勝手に帰ってしまった人がいたが、外国では普通のことのように思う。
 日本で道を聞いて、知らない人がでたらめを教えてくれたことを経験したことがない。日本人は誠実で真面目である。知らないのに知ったかぶりをして教える文化と、知らないことは知らないという文化とどちらが良いだろうか?

その2 お金を返す
 日本の江戸文化を示す典型的なものに「借りたお金を返す」というのがある。日本では当たり前のことで、返さないほうがおかしい。
 このことである時に私の知り合いの社長が次のようにいった。
「財産としては土地が一番いい。土地と言うのは価値もあまり変わらないし、第一、お金を借りても返さなくてもいいから」と言った。そのあとすぐ、「でも、武田先生はやめておいたほうが良いですよ。お金は返すものだから」とニヤッと笑った。
 江戸時代にはお金の借用証には「もし、返さなければお笑いになって結構です」と。つまり「恥」を重んじた日本文化では、「あいつはお金を返さない。愚かな奴だ、アッハッハッ」と笑われるのは死よりも辛いことだったから、キチンとした借用証は不要だった。
 ある大手の商社の重役は私に「相手の国は信用できないが、そこの事務所に日本人が一人でもいれば資金回収は大丈夫だ。日本人だけは世界で違う」と言った。
 ある銀行のトップは私に「日本のサラ金が成功したのは、日本人が借りたお金を返すという文化を持っていたからだ」と言った。

 素晴らしい日本文化ではないか! それを今では首相から始まって大臣も、代議士も、高級官僚も、東大教授も、NHK経営委員も、すべて日本文化を捨て去ったようだ。
 そんなにアメリカやドイツが好きなら、日本から出ていったほうが良いのではないか。(平成26年2月21日)

・いまなお、占領下でアメリカが強要した日本国憲法と、“吉田ドクトリン”による日本の呪縛が続いている。

・岸首相は日本を再び独立国家としようとして、信念を燃やしていた。
・岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。
・日本はアメリカに国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。
・日本がこれまで「平和憲法」という呪文を唱えながら、迷走してきた!
・真の独立国家こそが自らの国を護る
・軍は精神によって存在する。独立国は精神によってつくられている。
・岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる“吉田学校”によって政治が支配され、“吉田ドクトリン”のもとで、日本の迷走がずっと続いた。
・いまなお、占領下でアメリカが強要した日本国憲法と、“吉田ドクトリン”による日本の呪縛が続いている。











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■ 日本が戦後歩んだ71年の道は、正しかったのだろうか
加瀬英明   Date : 2016/08/05 (Fri)

 今年は、岸信介首相の生誕120周年に当たる。
 いま、アメリカが世界秩序を守るのに疲れて、内に籠ろうとしている。日本は好むと好まざるをえず、自立することを強いられよう。
 日本は戦後歩んできた道が、はたして正しかったか、熟考することを迫られている。
 私は岸首相が戦後の日本の首相のなかで、もっとも傑出した首相だったと、考えてきた。

 岸首相が求めた日米安保条約の改定:
 岸首相は1960年に、日米安全保障条約の改定を、身命を賭して行った。
 吉田茂首相が1951年にサンフランシスコにおいて講和条約に調印した時に、日米安保条約が結ばれた。この条約は不平等条約で、米軍が日本に無期限に駐留することを認めたが、アメリカが日本を防衛する義務を負っていなかった。 
 占領軍が駐留を続けるようなことだったが、当時、日本には警察予備隊しかなかったから、仕方がなかったといえよう。
 岸首相は日本を再び独立国家としようとして、信念を燃やしていた。アメリカと交渉して安保条約を改正して、アメリカに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の合意によって延長できる期限を設けた。

 岸首相が求めた新条約:
 新条約は「相互協力及び安全保障条約」と呼ばれ、経済をはじめとする諸分野において、協力することがうたわれ、日米関係に新しい時代をもたらすものだった。    そのために、アイゼンハワー大統領が、戦後、最初のアメリカ大統領として訪日することになった。
 岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。
 アイゼンハワー大統領の訪日を準備するために来日した、ハガティ秘書を乗せた乗用車が、羽田空港を出ようとする時に暴徒によって囲まれて、立往生する事態が起った。 岸首相は大統領が来日しても、安全を守ることができないという判断から、訪日を断らざるをえなくなり、その責任をとって辞職した。
 もし、あのような大規模な反対運動が起らなかったとしたら、日本の歯車が狂うことはなかった。

 日本の進むべき道とは:
 日本を取り巻く国際環境は、今日までつねに厳しいものであってきたが、日本はアメリカに国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。
 いまこそ、私たちは岸氏が日本の進路をどのように描いてきたのか、学ばなければならないと思う。
 私は5月に、日本の保守派を代表する月刊誌『正論』の新聞広告「総力特集 迷走するアメリカ 日本を守るのは誰か」を見て、暗然とした。
テレビや新聞は、ドナルド・トランプ共和党大統領候補として指名されることが、ほぼ確定したと報じていた。
 アメリカのヨーロッパ化が始まっている。  かつてヨーロッパは世界の覇権を握っていたが、重荷を担うのに疲れ果てて、内に籠るようになった。
 いま、日米関係が大きく揺らごうとしている。
 アメリカが迷走をはじめた、という。 しかし、日本がこれまで「平和憲法」という呪文を唱えながら、迷走してきたのではないか。

 真の独立国家こそが自らの国を護る:
 日本は独立を回復してから、経済を優先して国防を軽視することを国是としてきたが、「吉田ドクトリン」と呼ばれてきた。いま、この“吉田ドクトリン”が破産した。
 私は吉田首相が講和条約に調印して帰ってから、政治生命を賭けて憲法改正に取り組むべきだったと、説いてきた。
 吉田首相は国家観を欠いていた。 独立国にとって軍の存在が不可欠であるのに、旧軍を嫌ったために、警察予備隊を保安隊、自衛隊として改編したものの、今日でも自衛隊は警察隊か、軍隊の擬(まが)い物(もの)でしかない。
 吉田首相と岸首相を比較することによって、いったい戦後の日本が、どこで誤まってしまったのか、理解することができる。
 アメリカのダレス特使が、占領末期に対日講和条約の締結交渉のために来日して、吉田首相に「日本が再軍備しないでいるのは、国際情勢から許されない」と、強く迫った。

 独立国は第一に自国を護る精神がいる:
 吉田首相はそれに対して、「日本は経済復興の途上にあり、国民に耐乏生活を強いている。軍備に巨額の金を使えば、復興が大きく遅れてしまう。 それに理由なき戦争にかり出された国民にとって、敗戦の傷痕がまだ残っており、再軍備に必要な心理的条件が失われたままでいる」といって、頑なに反対した。
 だが、軍を創建するのは予算の問題ではあるまい。軍は精神によって存在する。独立国は精神によってつくられている。
 アメリカは日本を完全に非武装化した憲法を強要したことを、悔いていたから、独立回復とともに、憲法を改正ができたはずだった。
 吉田首相が日本が暴走したために、先の戦争を招いたと信じていたのに対して、岸首相は日米戦争がアメリカによって、一方的に強いられた自衛戦争だったと、考えていた。
 岸氏は敗戦直後に占領軍によって、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、入獄直前に「名に代へてこの聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代(よろずよ)までも伝へ残さむ」と詠んで、高校の恩師へ贈っている。

 不平等条約でよいではないか: 
 吉田首相は在職中に、憲法改正に熱意を示すことがなかった。引退後、口では憲法を改正すべきことを唱えたが、大磯で贅に耽るかたわら、積極的に推進することがなかった。
 吉田元首相は岸首相が1957年に日米安保条約改定のために、アメリカに滞在していた間に、毎日新聞に「訪米の岸首相に望む」と題して、寄稿している。
 「安保条約、行政協定の改正などについて意見が出ているようだ。しかし、私はこれに手を触れる必要は全然ないと信ずる。 今までのとおりで一向差支えない。 条約を結んだ以上は互いに信義をもって守ってこそ国際条約といえる。(中略) 不対等の条約もあって、それを結ぶことによって、国の利益になるなら私は喜んでその条約を結ぶ。下宿屋の2階で法律論をたたかわしているようなことで政治はやれない」(6月14日朝刊)

 独立国なら憲法を改正すべきだ:
 岸氏は巣鴨から釈放されると、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。1953年に、吉田首相の自由党から衆議院議員選挙に当選すると、憲法調査会の初代会長に就任している。 政界から退いた後も、自主憲法制定国民会議会長として、全国をまわって憲法改正をすべきことを訴えた。
 岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。
 岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる“吉田学校”によって政治が支配され、“吉田ドクトリン”のもとで、日本の迷走がずっと続いた。
 いまなお、占領下でアメリカが強要した日本国憲法と、“吉田ドクトリン”による日本の呪縛が続いている。
 岸首相といえば、日本では「昭和の妖怪」と綽名(あだな)されているが、吉田茂こそ「昭和の妖怪」の名に、ふさわしいのではないか。

 安倍内閣が安保関連法成立の意義:
 1960年の安保騒動は、岸首相が辞職すると、安保条約が発効したというのに、国会を囲んで荒れ狂ったデモが、何もなかったように沈静した。まるで悪夢をみたようだった。
 マスコミが1970年の数年前から「70年危機」として喧伝(けんでん)したにもかかわらず、一部の学生が新宿駅構内で騒いだだけで、終わった。
 反対運動は、国民のごく一部にしかあたらない勢力によって、つくりだされたのだった。
 安倍内閣が安保関連法を成立させた。この時も、新聞や大手テレビがさかんに煽って、連日、国会を囲んでデモや集会が行われたが、“お祭騒ぎ”に終わった。
 いま、私たちは岸首相の再評価を行うことが、求められている。

・上海株暴落と人民元切り下げを契機に外国資本はほぼ一斉に中国から撤退態勢にはいり、海外華僑のあらかたは資金を引き揚げた。

・中国大手不動産企業45社のうち、75%が減益となり、25%は赤字経営に陥った。
・工事中断のビルが目立ち、夜はゴーストタウン化していることは、いまや世界周知の事実である。
・上海株暴落と人民元切り下げを契機に外国資本はほぼ一斉に中国から撤退態勢にはいり、海外華僑のあらかたは資金を引き揚げた。











〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
中国富豪の激しい浮き沈み   宮崎正広   2015.12.07
■はたして逃げ切れるか?
「中国不動産情報センター」の調査結果に拠れば中国大手不動産企業45社のうち、75%が減益となり、25%は赤字経営に陥ったという(10月14日)。
「売れ残りの在庫処分には8年から10年を要するだろう」と不動産専門家はみている。
北京では不動産の売れ残りが新築ビルの30%を占めるとも見られ、当局は頭金の低減、各種ローンの延長など、泥縄の対策を講じているが、まったく焼け石に水だ。
工事中断のビルが目立ち、夜はゴーストタウン化していることは、いまや世界周知の事実である。
不動産取得税、取引税で成り立っていた地方政府は歳入が激減しており、これは中央政府の歳入激減に繋がる。
「中国の財政危機は過去三十年で最悪」(張智威ドイツ銀行ストラテジスト)。
 なにしろ売れ残りだけでも、NYマッハンタンのテナント総面積の六倍というのだ。
 このバブル破綻を早くから予知し、ピークのときに中国大陸で開発しためぼしい物件全てを売却して英国で不動産開発に乗り出したのが香港財閥第一の李嘉誠だった。李はうまく逃げ切った。
残る富豪らはどうしたか?
大連に本社がある「万達集団」は伝説の起業家、王健林が率いる。王は習近平に近い政商でもある。
万達集団は不動産ビジネスで急成長したが、王健林はバブルが始まる前から、不動産部門の比重を劇的に減らし、米国の映画館チェーンを買収し、ハリウッド映画界への進出を目指して映画製作会社の買収を物色した。
 また深センでも中国最大の映画館チェーンである子会社を上場させ、さらに香港では巨大なショッピングモールを建設し、あまつさえ上海などにディズニーランドを模したアミューズメントセンターの経営に乗り出した。
中国のヤングに焦点を当てて娯楽産業への投資を増やし、つぎにスポーツ施設の建設を始めるという多彩な、新鮮なビジネ・モデルを構築してきた。
 このように王健林は中国経済の次の着地点を誰よりも早くかぎ出して強気の投資を繰り返してきたのである。
KFCは中国子会社に売却し、米国本社は撤退を決めたが、逆に店舗を増やすのはスタバなど、つまり今後の中国は中産階級以上のエリート層がまだまた消費意欲ありと踏んでいるわけだ。
上海株暴落と人民元切り下げを契機に外国資本はほぼ一斉に中国から撤退態勢にはいり、海外華僑のあらかたは資金を引き揚げた。
 げんに日本の財界は数年前から「チャイナ・プラス・ワン」を標語に中国での生産活動を縮小もしくは撤退し、アセアン、インドへ進出を加速させてきたが、逃げ遅れた企業も夥しく、上海株暴落に連動してJFE、コマツ資生堂伊藤忠などは株価下落に見舞われた。
『フォーブス』中国版の今年度富豪第一位は「万達集団」の王健林だった。独特の収獲とカンが冴えているようである。(本文章は「北風抄」=北国新聞、11月16日付けからの再録)

・日本の文壇は左翼や無国籍リベラル作家にほぼ支配されているため、このように根源的文学、浪漫的熱情の冒険譚は無視されるか、敬遠される。

リービ英雄が、ある日、山上憶良が渡来人であったことを知って小説を書く決意をした。
・二十九歳の保田は大黄河に一人たたずみながら、脱亜入欧の明治の近代化、西洋化以来の日本人が、この遙かなる大陸において、大きな精神の転換をなすべきだとの確信を得た。
・日本語の大和言葉における、まさに『もの』を現代語のなかで、よみがえらせることではないか?
・冨岡氏は辻原登の「ダッタンの馬」を高く評価した。
・日本の文壇は左翼や無国籍リベラル作家にほぼ支配されているため、このように根源的文学、浪漫的熱情の冒険譚は無視されるか、敬遠される。 だから文壇でもマスコミでも大きな話題にならず、本屋でも目立たないという文化の退嬰が起きているのも事実である。











〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜

書評その40  宮崎正弘 冨岡幸一郎 著『千年残る日本語へ』(NTT出版)
『千年残る日本語へ』:

 文芸評論の分野では単行本の上梓そのものが珍しい。しかもこの書籍、なんとも題名が良い。  千年、残るほどの強き、そしてやさしき日本語。 雅(みやび)とたおやかさと優雅さと、みずみずしさ。
 源氏物語も、万葉集も、日本が世界に誇る古典である。
 鎌倉文学館館長でもある冨岡幸一郎氏は、なぜこの本を書いたのだろう?
 どうやら三島由紀夫の言葉が原点にあり、バネのような動機となったように考えられる。 というのも、富岡氏はこんな風に書き出すからである。
三島由紀夫は、村上春樹が『風の歌を聴け』で、作中の時間として設定した1970年に自決したが、その直前、『日本文学小史』という日本の古典文学を論じたエッセイを遺している。
 古事記万葉集からはじまり江戸期の近世文学(近松西鶴芭蕉、馬琴)までの日本語の歴史を、独自の視点から論じようと試みた文学史であった。
 残念ながらその死によって源氏物語を少しばかり論じたところで未完に終わった。(原文改行)しかし、古今和歌集にふれた個所で、作家は、ここで『日本語というものの完熟』を成就したという。
 古今和歌集の日本語こそは『本当の意味の古典美』を示している。それは日本人の『文化』の『白昼』(まひる)である、と」(冨岡同書、11p)

 文化の「白昼」(まひる)を経験した民族は、そのあとは「夕焼け」
 三島由紀夫の言はこうである。
「(万葉集は)古代の巨大な不安の表現」。
「文化の白昼を一度経験した民族は、その後何百年、いや千年にもわたって、自分の創りつつある文化は夕焼けにすぎなかったのではないかという疑念に悩まされる。 明治維新ののち、日本文学史はこの永い疑念から自らを解放するために、朝も真昼も夕方もない、或る無時間の世界へ漂い出た。 この無時間の抽象世界こそ、ヨーロッパ文学の誤解に充ちた移入によって作り出されたものである。 かくて明治以降の近代文学史は、一度としてその『総体としての爛熟』に達しないまま、一つとして様式らしい様式を生まぬまま、貧寒な書生流儀の卵の殻を引きずって歩く羽目になった」(『日本文学小史』講談社、1972年11月)。
 夕映えの赫々たる陽光、三島の存在も千年残る文学である。それゆえに多くが「日本文学小史」全編の完結を期待したのだった。
 さて千年残る日本語を模索する作家が現代日本に居るのか、いないのか。
 冨岡氏は本書で古井由吉朝吹真理子リービ英雄藤沢周辻原登らを取り上げて評価する一方で、村上春樹田中慎弥柳美里楊逸、温又柔らを論じる。
 在日外国人が四人もいるのは、自然にみについた言葉を操れる日本人作家と違い、ひとつひとつの意味を、体感的に覚えながら、母国語と日本語との距離と壮絶に戦いながら、日常の行為、風景を日本語を用いての、ふさわしき表現を試行錯誤で追求し身につけた経過をもっているからである。
 とくにジャパノロジストとして日本文学の翻訳に従事してきたリービ英雄が、ある日、山上憶良が渡来人であったことを知って小説を書く決意をした。
 リービの中国旅行記などを読むと、この人はアジア主義者かと思うほどである。  評者(宮崎)は個人的にリービ英雄辻原登を評価しているので、この二人を如何に冨岡氏が論じているかに興味があった。

異色作家、リービ英雄の登場:
 リービ英雄を論ずるにあたって、富岡氏はいきなり保田與重郎との比較から入る。
「昭和13年5月2日、日本浪漫派の代表的論客である保田與重郎は、詩人の佐藤春夫とともに朝鮮半島満州(現在の中国東北部)、北京から蒙古(現在の中国内モンゴル自治区およびモンゴル国)方面へかけて四十余日の大旅行へと発った。(中略)  保田は帰国後の十二月にこの一連の記録を『蒙彊』という一冊の本としてまとめた。(原文改行)
 北京の街に失望した保田は蒙彊地方の雄大なその自然に面して、深い感動をおぼえた。 二十九歳の保田は大黄河に一人たたずみながら、脱亜入欧の明治の近代化、西洋化以来の日本人が、この遙かなる大陸において、大きな精神の転換をなすべきだとの確信を得た」(同63p)。
 保田は実際には次のように書いた。
「我が国はまず、世界に先んじて十九世紀の一切のイデオロギーから訣別する。 問題は、十九世紀の完成をなさなかった日本の文化が、アジアによってより大きい転向をなしつつあるということである。(中略)日本の転向の萌芽を象徴するものは『蒙彊』である」。
 冨岡氏はリービ英雄の『天安門』が、つまり「大陸中国を、この島国の言葉で描くこと。 保田の『蒙彊』から半世紀を経て、それは現代の日本語作家として登場したアメリカ人のリービ英雄によって試みられた」というのである。

辻原登の言葉の豊かさ:
 辻原登について冨岡氏は次の指摘からはいる。
「辻原は『表現者』(08年五月号)の座談会『物語の源泉へ』のなかで、中国には『物語』という漢語はないといい、中国語では通常これを『グーシー(故事)』のことであると指摘している」と。
 辻原は、こう言っている。
「物語と呼んでいるのは日本でつくられた漢字です。これはしかも翻訳語ではない。それはなぜかというと僕は勝手にこう思っているんですが、日本語の大和言葉における『もの』というのは目に見えないものなんです。 ヤマトの人たちが『もの』と呼んだときは、本来は自信の中にいるべき何かが、なんらかの事情で体の外へでたもの、それをどうやら『もの』と呼んでいる」
 冨岡氏はこの発言を受けて、次のように続ける
「情報革命と言われる世界的現象のなかで、空間が無限に拡張され、言葉が断片化し、ゆっくりとして時間の流れが失われていくなかで、あらためて言葉が孕む『もの』の力を、小説という表現ジャンルによって(辻原が)表そうとしてきたのではないのか。 それは近代文学の過去のパターンに戻ることではなく、日本語の大和言葉における、まさに『もの』を現代語のなかで、よみがえらせることではないか」
 そして冨岡氏は辻原登の「ダッタンの馬」を高く評価して次のように言う。
「この作品の真の醍醐味は、まさに異国の発語の谷間を乗り越え、異なる文字の形を飛び越えてゆく、そのコミュニケーションの奔流を、現代日本語によって表記し、描いているところにある」(162p)。
 この辻原の小説は『日本経済新聞』に二年ほど連載されていたので、毎朝、愉しみに愛読していた。
 久しく日本文学が忘れてきた浪漫的冒険の、その熱血がほとばしるような作品だった。
 ところが日本の文壇は左翼や無国籍リベラル作家にほぼ支配されているため、このように根源的文学、浪漫的熱情の冒険譚は無視されるか、敬遠される。だから文壇でもマスコミでも大きな話題にならず、本屋でも目立たないという文化の退嬰が起きているのも事実である。

 朝吹真理子の登場は「芥川賞の歴史における時代的事件」か?
 紙幅も尽きたので、ほか作家たちに触れる余裕はないが、富岡氏が朝吹真理子の出現を芥川賞の歴史における『時代的事件』という比喩を用いて、たいそう高く評価し、今後の期待していることに驚かされた。
 『古語辞典』が大好きという彼女の文体を冨岡氏は「古語がよみがえる時間」であると言い、「村上龍村上春樹の両ムラカミの登場の衝撃とは明らかに違う、朝吹真理子という才能の出現は、おそらくこの現代という時代の表層(彼女のいう「匿名の人たちの唇や吐息」の触媒)に深く関わっているのではないか。(原文改行) 失われた古語が、まさに現代の『言葉として新たな生』を回復しはじめる」(36p)。
 久方ぶりに本格的な日本文学の篤い評論を読んで、時間があっという間に過ぎた。





・漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代とされている。 

・漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代とされている。 
・商の初期には、中国文明はすでに相当高いレベルに達しており、その特徴の一つは、甲骨文字の誕生といわれた。
・甲骨文字は、亀の甲や獣の骨に刻まれた古い文字である。
・商の時代には、国王はどのようなことをやる前にも、かならず占いをしたが、甲骨文字はその占いをするときの道具であるとされた。
・この甲骨は政府当局の文献として保存された。
・考古学の専門家は、あわせて甲骨16万枚あまりを発見している。







〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
漢字の起源を探る 黄河流域の漢民族文化   古沢襄

 古代文明は文字の使用によって歴史が伝えられ、王朝の栄枯盛衰を知ることができる。 支那上古史で考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝を「殷(いん)」といったが、漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の殷(商)の時代だといわれる。
 殷は古伝説の夏を滅ぼして王朝を立てたとされている。 殷の祖・契は舜王朝で禹の黄河治水を助けた功績で陝西省の商王に封じられた。
 商の名は『通志』などで殷王朝の祖・契が商に封じられたとあるのに由来するとされ、『尚書』でも「商」が使われているので、商王朝ともいう。いずれも文字によって伝えられている。
 陝西省の商王・契は、その強大な軍事力で知られた。 
 度重なる戦争に勝利を収めるために、商王たちは兵種、戦法、軍備などを発展させていったという。
 とくに「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術を編み出した点が注目された。
 契から数えて13代目の天乙(湯)が賢相・伊尹の助けを借りて鳴条の戦いで夏王桀を倒し諸侯に推挙されて王となったのはその軍事力によるところが大きい。
 殷(商)王朝は二十八世・六百余年続いた。しかし暗愚な王が続いて王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、妃の妲己を溺愛し、暴政を行ったので、周の武王によって牧野の戦いで誅殺され、殷王朝はあっけなく滅びた。
 軍事力で強大な殷(商)王朝が滅びたのは、人徳に欠けた王の下では国家の安寧は覇道ではなく、王道を歩むことにあることを如実に示している。
 さて支那上古史を詳述するのが、本稿の目的ではない。
 支那文化の発展に寄与した「漢字の起源」を探るのが目的である。

 今から、約6000年前のものである半坡遺跡で、50種あまりの符号が発見された。 それには一定の規律があり、簡単な文字の特徴を持っている。「これは漢字の萌芽である可能性が高い」と専門家たちは見ている。
 だが漢字が系統的な文字になるのは、紀元前16世紀の商の時代とされている。 商の初期には、中国文明はすでに相当高いレベルに達しており、その特徴の一つは、甲骨文字の誕生といわれた。
 甲骨文字は、亀の甲や獣の骨に刻まれた古い文字である。
 商の時代には、国王はどのようなことをやる前にも、かならず占いをしたが、甲骨文字はその占いをするときの道具であるとされた。
 この甲骨は政府当局の文献として保存された。
 考古学の専門家は、あわせて甲骨16万枚あまりを発見している。

 私は黄河流域で興った漢民族の興亡史よりも北辺にあって漢民族を脅かした古代トルコ民族の末裔の壮大な興亡史の方に興味があるが、文字を持たない遊牧国家の興亡史は漢民族の文献によって知るしかない。


関連記事リスト(YAR):
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月曜日, 7月 13th, 2015 at 8:20 AM