50年前から拉致事件は発生している、政府は責任をもって遡って対処せよ!

・三条 健です。
・木村かほるさん(71)は、北朝鮮に拉致された。ちょうど50年前の昭和35年2月27日のことである。かほるさん21歳、卒業を間近に控え、実家のある八戸市の病院への就職も決まっていたのに、この日午後5時半ごろ、小さなバッグを小脇に出たまま二度と帰らなかったということです。
昭和35年の春、北朝鮮への帰国事業が始まって間もないころ、
帰国事業では10万人近い在日韓国人朝鮮人やその日本人妻らが北朝鮮に渡って、悲惨な目にあっている。同時にその過程で、医療関係者ら多くの日本人が拉致された可能性も指摘されている。この木村かほるさんの例ひとつとっても拉致事件のすそ野は広く、深い。
特定失踪者問題調査会の特定失踪者リストはすでに270人に達している。だが日本政府は依然、17人を被害者として認定しているだけだ。

日本政府のこの問題に対する怠慢は、滅茶苦茶だ。50年前から事件は発生しているということなら、遡って調査を実施せよ!
特定失踪者問題調査会の特定失踪者リスト270人でも、全然、足りないほど日本人が北朝鮮へ連れ去られていることは間違い無い。
これでは、被害者、その家族は死に切れない!

〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

【風の間に間に】論説委員・皿木喜久 50年前にもあった「拉致」
2010.4.30 02:56
 青森県八戸市の元高校教師、天内(あまない)みどりさん(76)とお会いしたのは今年3月、木村洋二・関大教授を「偲(しの)ぶ会」の席だった。木村氏は「笑い」の研究などで知られた社会学者で、昨年夏61歳で亡くなった。天内さんは実のお姉さんである。

 そのとき、天内さんの妹で洋二氏の姉、木村かほるさん(71)の「拉致の可能性がある失踪(しっそう)」についてお聞きした。こんな身近にも「拉致」問題があったことに衝撃を受け、事件を書いた天内さんの著書『芙蓉(ふよう)の花』や資料を送っていただいた。

 かほるさんが秋田市の秋田赤十字高等看護学院の寮から姿を消したのは、ちょうど50年前の昭和35年2月27日のことである。21歳、卒業を間近に控え、実家のある八戸市の病院への就職も決まっていた。それなのに、この日午後5時半ごろ、小さなバッグを小脇に出たまま二度と帰らなかった。

 3日後、天内さんは父親の一栄さんと八戸から秋田へ向かった。かほるさんが立ち寄りそうな所を隈(くま)なく回り秋田県警に捜索願を出すが、何ら情報は得られない。

 帰る途中には、青森で青函連絡船の乗船名簿を見せてもらった。「津軽海峡の波のうなりを聞きながら数時間かけての作業はあまりに哀しく、父の胸中を思って涙が溢(あふ)れるのでした」と書く。

 実は天内さんはこの時点で、かほるさんは「事件」に巻き込まれたと、確信していた。

 昭和20年8月、ソ連軍の参戦により、旧満州から病弱の母親と6歳のかほるさんの手を引き、日本に帰ってきた。途中、朝鮮半島で拘束され1年に及ぶ「難民」生活を経る。泥水をすするような命からがらの脱出だった。『芙蓉の花』の前半は、その引き揚げ経験を描いている。

 「そんな思いまでして帰ってきた妹が自ら命を絶つわけがないと思っていました」という。

 やがて北朝鮮による「拉致」が明らかになるにつれ、かほるさんも拉致されたに違いないと思うようになる。平成15年5月には、特定失踪者問題調査会が公表した3回目の「拉致可能性 失踪者リスト」にも載った。

 19年10月には、調査会から有力な情報が寄せられた。1982年に北朝鮮に拉致され2年後に脱北をはたしたタイ人女性たちの日本語教師のことである。身長、顔立ち、歩き方、そのすべての特徴がかほるさんのものだった。

 調査会の荒木和博代表も「さまざまな情報がそろった希有(けう)な例です。拉致されたことは間違いないでしょう」と話す。

 他の拉致事件に比べ時代はかなり古い。この点、天内さんは「昭和35年の春といえば、北朝鮮への帰国事業が始まって間もないころですから、それとの関連で連れていかれたのではないか、と思っています」と言う。

 帰国事業では10万人近い在日韓国人朝鮮人やその日本人妻らが北朝鮮に渡って、悲惨な目にあった。同時にその過程で、医療関係者ら多くの日本人が拉致された可能性も指摘されている。この木村かほるさんの例ひとつとっても拉致事件のすそ野は広く、深い。調査会の特定失踪者リストはすでに270人に達している。だが日本政府は依然、17人を被害者として認定しているだけだ。

 50年の歳月は長い。両親も、天内さんとともにかほるさんを捜し続けてきた洋二氏もすでに亡い。天内さんは今日もひたすら妹の帰りを待っている。 (論説委員