大船渡市赤崎町の合足(あったり)集落は明治の経験を守ったから助かった!

・大船渡市赤崎町の合足(あったり)集落は繰り返し津波に襲われてきた。
明治29年の明治三陸津波では、住民約130人のうち81人が死亡、全戸が流失したという記録がある。また、昭和8年の昭和三陸津波では約20人が死亡、約10戸が流された。2つの津波での被害を教訓に、高台への移住も進んだ。
・震災直後の津波警報で道路が規制され、一時孤立した際は、コメ農家が自家発電機で精米機を動かし、蓄えてあったコメを配った。停電で使えない冷蔵庫から出した食料を近所同士で分け合い、井戸や沢の水をみんなで使ったという。
・「町の便利な暮らしが災害時は不便になる。昔ながらの生活も大切だ!」
大船渡市赤崎町の合足(あったり)集落は明治の経験を守ったから助かった!

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
明治の経験、今に生きる 74人無事の岩手の集落
2011.4.12 22:33

 明治時代の津波で壊滅的被害を受けた経験から、「自分の身は自分で守る」の精神を受け継ぎ、東日本大震災津波に見舞われながら、外出先で不明となった1人を除く74人が無事だった集落が岩手県大船渡市にある。津波で孤立状態になれば支え合いの精神を発揮。近所同士で身を寄せ合ってしのぎ、水や食料にも不自由することはなかった自分の身は自分で
 大船渡市赤崎町の合足(あったり)集落。かつて三陸名産のワカメ漁が盛んだった小さな漁村で、川沿いの谷に24世帯、75人が暮らしていた。
 地震が発生したとき、自治会長の上野敏夫さん(61)は海岸でワカメ漁の片づけをしていた。津波に備えて、必死の思いで仲間の漁師と水門を閉じ、近くの山にかけ登った。「みんなうまく逃げたか…」。ほかの住民のことも気になったが、まずは自分の身を守った。
 その直後に津波が集落を襲った。防風林の松がなぎ倒され、海に近い民家4戸が全壊。公民館や漁協の倉庫、約20隻あった船が流失したものの、当時集落にいた全員が無事だった。ただ、陸前高田市の実家に出かけていた女性1人は現在も行方不明という。
 「明治から何度も津波にやられた。自分の身は自分で守る意識の高い土地柄だったんでねえか」と上野さん。
 今回の津波では、全員がそれぞれの家の裏山へと逃げた。年1回の市との合同避難訓練では、公民館に集まっていたが、今回の津波で公民館は全壊した。とっさの判断で裏山に向かったことが幸いした。

高台への移住進む
 上野さんがいう通り集落は繰り返し津波に襲われてきた。明治29年の明治三陸津波では、住民約130人のうち81人が死亡、全戸が流失したという記録がある。また、住民によると、昭和8年の昭和三陸津波では約20人が死亡、約10戸が流された。
 2つの津波での被害を教訓に、高台への移住も進んだ。海岸から約1キロの高台に住む上野祐浩さん(26)は昭和8年の津波後、祖父の代に現在の場所へ移り、今回は難を逃れた。「不便な場所だけど、今回ばかりは、じいちゃんに感謝しました」と話す。

孤立しても“自給”:
 現在、自宅が全壊した4戸の住民全員が避難所ではなく、集落内の他の民家に身を寄せる。漁業の上野行雄さん(74)は家族3人で居候(いそうろう)の身。世話してもらっている心苦しさから、一度は仮設住宅を申し込んだが、結局取り下げた。「あと何年お世話になるのか…。でも、死ぬまでこの集落で生きることにした」と前を向く。
 震災直後の津波警報で道路が規制され、一時孤立した際は、コメ農家が自家発電機で精米機を動かし、蓄えてあったコメを配った。停電で使えない冷蔵庫から出した食料を近所同士で分け合い、井戸や沢の水をみんなで使ったという。
 農業の古内嘉博さん(56)は「町の便利な暮らしが災害時は不便になる。昔ながらの生活も大切だということでしょう」。(市岡豊大)