・「建国以来最大の密輸事件」の主犯 頼昌星を送還させるべく執拗(しつよう)に動いてきた胡錦濤指導部の究極の狙いは、江沢民らの政治的息の根を断つことにあった!

・2004年夏、江氏は国家主席兼党総書記の座を胡氏に譲って2年たち、中央軍事委員会主席の椅子からも退かなければならなかったが、江氏はたった1つ残ったポストに未練があり、継続してもらいたいという声を党内で高めようと躍起になっていた。
・その後、「軍委首長」と呼ばれる人物がいることが明らかになった。いかなる党・政府の決まりにもないが、「軍委首長」は、すべての公職から身を引いたはずの江氏だった。軍主体の大式典で、中央軍事委員会主席を兼ねる胡氏が立ち、その隣に江氏が並んでいたのも、彼が「軍委首長」であったればこそだ!
・7月23日、「建国以来最大の密輸事件」の主犯 頼昌星が北京国際空港に降り立った。頼氏が率いた一団は廈門(アモイ)を舞台に、儲(もう)けになるあらゆる物資を密輸し、邪魔をする税関の監視艇を沈め、首を突っ込む税官吏を始末してしまうという手荒なことをやった。
・頼氏には福建省政府の貿易機関幹部の林幼芳という女性の庇護(ひご)者がいた。林氏にもまた、1990年から96年にかけて福建省トップ、省党委書記や省長を務めていた夫の賈慶林氏という後ろ盾がいた。
福建省党委の副書記には賀国強氏がいて賈氏の後、間に1人をおいて99年まで福建省長だった。もう1人、来年の党大会で胡錦濤国家主席を後継するとみられる習近平氏は95年から福建省党委の副書記をし、99年に省長となっている。
・「建国以来最大の密輸事件」の主犯 頼昌星を送還させるべく執拗(しつよう)に動いてきた胡錦濤指導部の究極の狙いは、江沢民らの政治的息の根を断つことにあった!




〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
中国最大の密輸犯送還の読み方
中国現代史研究家・鳥居民 2011.8.23 03:02

 1カ月前の7月23日午後8時過ぎ、中国で信じられない出来事が起きたと書けば、大方の読者は、ああ高速鉄道脱線事故のことか、と察しがつかれるだろう。そう、浙江省温州市付近で高速鉄道が脱線して、多数の死傷者を出しながら、鉄道当局が事故車両の一部を土中に埋めたりして、原因究明を疎(おろそ)かにしたばかりか証拠隠滅を図ろうとした印象も与え、さらに、その2日後には早くも運行を再開し、日本を世界を何度も唖然(あぜん)とさせたあの事故である。

鉄道事故の陰でカナダから≫:
 それより4時間前の午後4時、この事故に比べれば注目度は低かったものの、重要度十分の出来事が中国であった。北京国際空港に着陸したカナダの旅客機から、中国人警護員に護送された1人の中国人男性が降り立ったのである。この男、名前を頼昌星という。お決まりの枕詞(まくらことば)を使って、「建国以来最大の密輸事件」の主犯だと紹介すれば、思い出される読者も中にはおられるかもしれない。
 頼氏が率いた一団は廈門(アモイ)を舞台に、儲(もう)けになるあらゆる物資を密輸し、邪魔をする税関の監視艇を沈め、首を突っ込む税官吏を始末してしまうという手荒なことをやった。当然ながら、頼氏には庇護(ひご)者がいた。福建省政府の貿易機関幹部の林幼芳という女性である。林氏にもまた、後ろ盾がいた。夫の賈慶林氏、1990年から96年にかけて福建省トップ、省党委書記や省長を務めていた御仁だ。
 ついでに記しておけば、福建省党委の副書記には賀国強氏がいて賈氏の後、間に1人をおいて99年まで福建省長だった。もう1人、来年の党大会で胡錦濤国家主席を後継するとみられる習近平氏は95年から福建省党委の副書記をし、99年に省長となっている。習氏については、ここでは触れない。

 廈門密輸事件の摘発が始まったのは99年4月、その年の8月には頼氏は家族とともに、カナダに逃れている。翌年、カナダ当局に捕らえられ、難民の申請をした。以来、本国に送還させられる11年の間に、密輸事件の関係者12人が刑死し数十人が入獄している。

江沢民一派の息の根を断て≫ :
 この間、頼氏は二度、声明を発表し、獄中の公安部副部長よりも上の幹部が事件には関与していると語った。その幹部たちに向かって、自分を送還させようとする連中を抑えよ、さもなくば…と脅しをかけたのだ。それらの者たち、例えば賈、賀の両氏は同じ11年間に、「たった9人が世界を動かしている」といわれる、その9人の党中央政治局常務委員になった。2人とも江沢民国家主席が一番に信頼していた配下だった。

 もっとも、頼氏を連れ戻さずとも、来年の18回党大会後に賈、賀の両氏が残ることはない。来年には、賈氏は72歳、賀氏は68歳になり、党役員の定年に引っかかる。頼氏を送還させるべく執拗(しつよう)に動いてきた胡錦濤指導部の究極の狙いは、江氏らの政治的息の根を断つことにあったのではないか。

 話を7年前の2004年夏に戻そう。江氏は国家主席兼党総書記の座を胡氏に譲って2年たち、中央軍事委員会主席の椅子からも退かなければならなかった。ところが、江氏はたった1つ残ったポストに未練があり、継続してやってもらいたいという声を党内で高めようと躍起になっていた。
 胡氏と氏に連なる主流派はどうしたか。頼氏の身柄が近く、中国側に引き渡されるという情報が広まり、胡氏が江氏に向かって賈常務委員は私が守ると約束したという噂が、その後に続いた。米紙ニューヨーク・タイムズが江氏は辞任すると報じ、氏は辞めた。

≪「軍委首長」にしがみつく≫ :
 その後のことである。「軍委首長」と呼ばれる人物がいることが明らかになった。公にされたことはなく、いかなる党・政府の決まりにもないが、現職の軍総参謀長がはっきり述べた呼称であり、間違いなく存在している。「軍委首長」になっているのは、すべての公職から身を引いたはずの江氏だった。軍主体の大きな式典で、中央軍事委員会主席を兼ねる胡氏が立ち、その隣に江氏が並んだりしていたのも、彼が「軍委首長」であったればこそ、なのだ。
 党中央に圧力をかけ、そんなポストを秘密裏に設けさせたのは、中央軍事委員会の委員たちであろう。江氏に引き立てられたのを恩に着ての行動だけではなかった。軍事費の毎年2桁増しの大盤振る舞いをしていた、江政権時代の慣行を踏襲させようと、江氏のために新ポストを提供したのである。
 中国が軍事費を5年ごとに倍増していく無駄を続ける余裕などないことは、胡主席温家宝首相が公の場では口にはしないものの執務室では語ってきたはずだ。
 中央軍事委員たちはいずれも、来年の党大会までに定年の70歳に達し、その陣容は一新される。その機を逃すことなく、江氏の息がかかっていた面々を一掃することにより、軍事費増大に歯止めをかける−。それは胡−温体制最後の大仕事の一つになるはずだ。
 頼氏送還には、胡指導部のそんな意図が見え隠れするのだ。(とりい たみ)