・プーチンは、自身と社会の間に生じた深い隔たりを埋めない限り、2012年春の大統領選挙へ向け、それは広がりこそすれ狭まりはせず、確実とみられる大統領復帰すら危うい!

プーチン首相率いる「統一ロシア」は、議席を大幅に減らして事実上の敗北を喫した。
・2000年に国民が求めたのは、規律、秩序、安定の回復であり、それを保証する「強い国家権力」であった。
・価値観形成の重要な時期に、ゴルバチョフ政権や後続のエリツィン政権の下で、ペレストロイカや「民主化」を経験し、個人の自由な発展を重視する若い世代は、メドベージェフ大統領が提唱した「近代化」路線などの影響もあって、ロシアはもはや現状維持ではすまされない、変化しなければ、と痛感していた。
プーチンは、自身と社会の間に生じた深い隔たりを埋めない限り、2012年春の大統領選挙へ向け、それは広がりこそすれ狭まりはせず、確実とみられる大統領復帰すら危うい!



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
ロシア皇帝  時代から取り残される「ツァー」
北海道大学名誉教授、拓殖大学客員教授木村汎 
2011.12.28 03:12 [正論]
 12月4日のロシア下院選挙で、「ツァー」(ロシア皇帝)とも呼ばれる最高実力者、プーチン首相率いる「統一ロシア」は、議席を大幅に減らして事実上の敗北を喫した。しかも、その後、国内各都市では選挙不正に抗議するデモが繰り広げられ、「プーチンなきロシア!」コールすら声高に叫ばれている。今日のロシアで一体、なぜこんな事態になったのか。
≪国民輿望の体現者だったが…≫:
 プーチン首相と、今のロシア社会との間に拡大しつつある懸隔の拡大。一言でいうとこれが最も大きな理由だ、と私は考える。
 プーチン氏が2000年に登場したとき、そうした乖離は存在しなかった。当時、大多数のロシア人は、旧ソ連末期にゴルバチョフ書記長(後に大統領)が現れて改革の旗を振り出して以来、国家と国民が未曽有の混乱と無秩序のただ中に投げ込まれたことに、やり場のない不満を募らせていた。  彼らが求めたのは、規律、秩序、安定の回復であり、それを保証する「強い国家権力」であった。
 ロシア大統領に就任したプーチン氏は、彼らの目に、まさしくその希求に応えて出現した指導者にほかならないように映った。   プーチン氏の方も、そんな国民大衆の期待をくみ上げて、己の人気を高めようと懸命に試みた。 チェチェン過激勢力に対する仮借なき武力攻撃は、その好例である。
≪メドベージェフ氏起用の効能≫:
 任期切れの大統領職にメドべージェフ氏を据え、自らは首相に回った“双頭体制”下のこの約3年半間も、プーチン氏とロシア社会の間にさして大きな溝は生じなかった。  ひとつの理由は、相棒にメドベージェフ氏を選んだことに求められる。  同氏は13歳年下で、若い世代に属する。  趣味、関心、スタイルなど多くの点で、プーチン氏とは対照的だ。  一例を挙げるだけでも、プーチン氏が一切のコンピューター操作を秘書任せにするのに対し、メドベージェフ氏は「フリーク」といっていいほど、インターネット好きである。
 案の定、メドベージェフ大統領は非常に慎重な形をとりつつも、師匠であるプーチン前大統領の経済政策、「プーチノミックス」を補完し、修正する路線を打ち出した。  平たく言えば、ロシア経済の「近代化」構想である。   注目すべきは、プーチン首相が、弟子に当たるメドベージェフ大統領による新機軸の提唱を黙認して、許容する態度を示したことだった。
 それは、なぜだったのか。
 プーチン首相は、自身とメドベージェフ大統領の政策路線が相互補完的な関係にあり、お互いの間で一種の役割分担を行うことが結局、双頭体制の維持に貢献するとみなしたからである。   例えば、両指導者がロシア社会内の異なるグループにアピールすることは、体制の支持層の拡大に役立つ。
 具体的にいうと、プーチン首相がターゲットとしたのは、次のような人々だった。  公務員、年金生活者、中産・下層階級、共産主義、あるいはソ連時代の教育がまだ尾を引いている中・高卒者。地方在住者。テレビを主な情報源としていることから、「テレビ党」と彼らを名付ける学者もいる。
 他方、メドベージェフ大統領が分担し、アピールしようとしたのは以下のような人々だった。 20〜40歳代の働き盛り。  自らの才覚で食べてゆける自営業者。  都市部に居住し、外国旅行の機会にも恵まれ、海外事情に通じている。  価値観形成の重要な時期に、ゴルバチョフ政権や後続のエリツィン政権の下で、ペレストロイカや「民主化」を経験し、個人の自由な発展を重視する。   インターネットを主要な情報源とするため、「インターネット党」とも呼ばれる。
≪ポスト入れ替え公表は逆効果≫:
 ところが、である。プーチン氏は、既定路線としていた大統領返り咲きの意図を、下院選挙前の9月24日に表明した。  おそらく同氏は、その時点で公にすればロシア国民を安堵(あんど)させて、急落中の「統一ロシア」の支持率の回復にも役立つ、と考えたのであろう。
 それは誤算だった。ロシアの有権者たちは予想以上に激しく反発した。  彼らの多数、特に、若い世代にとり、1990年代のトラウマ(心的外傷)は今や、遠い過去の事柄である。   彼らは、スローガン的な側面もあったとはいえ、双頭体制下でメドベージェフ大統領が提唱した「近代化」路線などの影響もあって、ロシアはもはや現状維持ではすまされない、変化しなければ、と痛感していた。
 プーチン氏は、その必要性を説くメドベージェフ氏を2期目の任に当たらせず、首相職をあてがい、事実上彼を切ったのである。
 権力を握ってからの約12年間にロシアの社会、とりわけ国民の意識に生じつつある変化を正確につかみ損なった。   この点にこそ、この9〜12月にプーチン氏が犯した誤算の真因があるといえる。
 プーチン氏は、自身と社会の間に生じた深い隔たりを埋めない限り、来春の大統領選挙へ向け、それは広がりこそすれ狭まりはせず、確実とみられる大統領復帰すら危うくなりかねないだろう。(きむら ひろし)