・民主党よ! 「人」が死ぬことを防ぐ「コンクリート」は本当に不要なのか?

・三条 健です。
民主党よ! 「人」が死ぬことを防ぐ「コンクリート」は本当に不要なのか?
東日本大震災の約5カ月前に「東北地域においては、三陸沖北部地震宮城県沖地震がそれぞれ予想されている。ここに、三陸沖北部地震の30年以内の発生確率は90%、そして、宮城県沖地震に至っては99%で発生することが予想されている」が出版されていた。
・平成22年度に、その年に誕生した民主党政府の「事業仕分け」により小中学校の耐震補強予算が3分の1程度にまで削減され、インフラの耐震化が取りやめになった!
・皮肉にも『コンクリートから人へ』の転換によって、ほぼ間違いなくいつかどこかで生ずるであろう巨大地震によって失われる『人』の命の数を、増加させてしまうことは避けられない!
・震災前、その方は堤防工事に携わっていたそうである。 受注したその堤防工事は、当初計画よりも数メートル低いもので、それは、途中で公共事業の政府財源が削減されたことが理由だった!
・後日、現場を訪れたとき、当初計画の高さで堤防を築いてさえいれば、被害は防げたであろうことを理解した!
岩手県普代村で造られていた15メートル堤防によって、近隣の村が壊滅した中で普代村だけが救われた事例や、大堤防によって釜石市の被害が大きく軽減されたことが事後分析から判明した事例は、一般にも知られた!
・「このコンクリートがなかったので民が殺(あや)められた」という事例が明らかになれば、賠償すら伴うような明確な「責任」がそこに発生してしまう以上、そうした事例はめったなことでは表面化しない!
・過激な公共事業の予算削減さえなければ、助かった命が数多くあったであろうことは想像できる!
・首都直下地震、東海・東南海・南海の三連動地震の危機が迫りつつある今、「公共事業はとにかく悪」という先入観を、それを「とにかく善」と見なす先入観とともにうち捨て、冷静かつ合理的に、なすべき強靱(きょうじん)化対策を考えねばならない!   さもなければ、政府が再び「巨大な不作為の罪」を重ねてしまうことは火を見るよりも明らかだ!





〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
「コンクリートから人へ」の幻想
京都大学大学院教授・藤井聡 2012.4.2 03:15 [正論]

 平成22年10月、東日本大震災の約5カ月前、次のような件(くだり)が記載された書籍が出版されていた。
 「東北地域においては、三陸沖北部地震宮城県沖地震がそれぞれ予想されている。ここに、三陸沖北部地震の30年以内の発生確率は90%、そして、宮城県沖地震に至っては99%で発生することが予想されている」
≪仕分けで耐震化予算削られる≫:
 この記述の後では、平成22年度に、その年に誕生した民主党政府の「事業仕分け」により小中学校の耐震補強予算が3分の1程度にまで削減され、インフラの耐震化が取りやめになったことが紹介され、次のように続けられている。
 「いうまでもなく、こうした民主党政権の判断は、『コンクリートから人へ』の考え方を踏まえてのものである。しかし、皮肉にも『コンクリートから人へ』の転換によって、ほぼ間違いなくいつかどこかで生ずるであろう巨大地震によって失われる『人』の命の数を、増加させてしまうことは避けられない」
 以上は、僭越(せんえつ)ながら、筆者の著書、『公共事業が日本を救う』の一節からの引用である。
 大震災から1年−。  われわれは日本の全ての国力を結集して、救援、復旧、復興を進めてきたといえるだろうか。  そして、われわれ日本国民は、その発災以前に、一体何をすべきであったかを反省し尽くしたといえるのだろうか。
 筆者のみならず、大方の読者はこの問いかけに「否」としか答えられないのではないかと思う。
 例えば、多くの読者は、次のようなことをご存じないと思う。
 東北沿岸部で長く建設業を営んでこられた方に伺った話である。  具体的な場所を明らかにはできないが、震災前、その方は堤防工事に携わっていたそうである。   受注したその堤防工事は、当初計画よりも数メートル低いもので、それは、途中で公共事業の政府財源が削減されたことが理由だったという。
≪当初計画の堤防なら命守れた≫:
 彼は発注された仕様書に基づいて堤防を造った。  堤防はこの度の大津波に乗り越えられ、小学生を含む多数の方々がその地で犠牲になった。  彼は後日、現場を訪れたとき、当初計画の高さで堤防を築いてさえいれば、被害は防げたであろうことを理解したという。
 こうした「コンクリート」の重要性を示す事例は、よほどのことがない限り、明るみに出ない。 もちろん、岩手県普代村で造られていた15メートル堤防によって、近隣の村が壊滅した中で普代村だけが救われた事例や、大堤防によって釜石市の被害が大きく軽減されたことが事後分析から判明した事例は、一般にも知られてはきている。
 しかし、「このコンクリートのおかげで救われた」という話とは逆方向の、「このコンクリートがなかったので民が殺(あや)められた」という事例が明らかになれば、賠償すら伴うような明確な「責任」がそこに発生してしまう以上、そうした事例はめったなことでは表面化しないのである。  だから、そうした事例は、前述の関係者証言ぐらいからしか暗示され得ない(そうした問題意識から、筆者は今、現場の人々の発言でしか把握できない質的事実を解釈学的に捉える人文学的研究を進めている)。
 いずれにしても、この関係者証言は、「このコンクリートがなかったので…」といった状況が、広大な被災地の中には少なくなかったであろうことを暗示している。
 事実、この方に、「もし、これまでに公共事業の財源が削られることがなければ、2万人近くに上るといわれる犠牲者はどうなっていたと想像されますか?」と尋ねたところ、「そうですねぇ…半分くらいの方は助かったのではないでしょうか…」との答えが返ってきた。  この数値を額面通りに受け取ることはできないとしても、過激な公共事業の予算削減さえなければ、助かった命が数多くあったであろうことは想像できよう。
≪「公共事業悪玉論」は先入観≫:
 被災地では今、少しずつ復興事業が始められつつある。  しかし、これだけの未曽有の被害を経てもなお、「土建国家の再来を警戒せよ」という通り一遍の論調がさまざまなメディアに表れている。
 われわれ日本国民は、そうした論調こそが公共事業反対ムードをつくり、それが公共事業予算を過激に削減させ、その結果、巨大地震の被害を拡大させて人々を苦しめ、多くの人々を殺め続けているという実態を、もういい加減、理解すべきときではなかろうか。
 首都直下地震、東海・東南海・南海の三連動地震の危機が迫りつつある今、われわれは「公共事業はとにかく悪」という先入観を、それを「とにかく善」と見なす先入観とともにうち捨て、冷静かつ合理的に、なすべき強靱(きょうじん)化対策を考えねばならぬときにきている。   さもなければ、政府が再び「巨大な不作為の罪」を重ねてしまうことは火を見るよりも明らかだ。
 「人」が死ぬことを防ぐ「コンクリート」は不要なのか−。  この重い問いかけに、われわれはメディア関係者も含め、真摯(しんし)に向き合わなければならないのである。(ふじい さとし)