・最も問われるべきは、それまで拉致を放置し続けた国家の不作為責任だ!

・大戦末期、朝鮮半島の38度線より北側では、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破って侵入し、多くの日本人が犠牲になった。
・北沢玉枝さんの夫、保次さんは興南工場の技術者で、終戦時、12万人いた日本人会の会長だった。 工場の日本人従業員と家族は身ひとつで社宅を追い出された。 保次さんがソ連軍と折衝し、コウリャンのしぼりかすを分けてもらい、飢えをしのいだが、3千人が飢えと寒さで死亡した。
・平成20年8月の日朝実務者協議で、北朝鮮拉致被害者の再調査を約束した。
・拉致の疑いを否定できない特定失踪者のうち、特に疑いが濃厚な失踪者は73人だ。
朝鮮総連の中央本部財政局副局長だった韓光煕(ハングァンヒ)さんは著書「わが朝鮮総連罪と罰」の中で、自分だけで38カ所の工作船接岸ポイントをつくったことを告白している。また、特定失踪者が行方を絶った時期は昭和20年代にさかのぼる。
・最も問われるべきは、それまで拉致を放置し続けた国家の不作為責任だ!



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
拉致許した国の不作為責任
論説委員・石川水穂    2012.8.18 03:08
◆敗戦の混乱で悲惨な死
 29日、中国・北京で、北朝鮮に残る日本人の遺骨返還や墓参などをめぐる日本と北朝鮮の政府間協議が行われる。   先の日朝赤十字協議に続くもので、日本政府は拉致問題も提起する。
 先の大戦末期、朝鮮半島の38度線より北側では、旧ソ連軍が日ソ中立条約を破って侵入し、多くの日本人が犠牲になった。
 6年前の「正論」5月号の「フォトギャラリー」に、日本が北朝鮮に残した東洋一の化学工場、日本窒素興南工場の写真を寄せた北沢玉枝さんは、朝鮮北部から脱出した日本人の一人だ。
 玉枝さんの夫、保次さんは興南工場の技術者で、終戦時、12万人いた日本人会の会長だった。工場の日本人従業員と家族は身ひとつで社宅を追い出された。保次さんがソ連軍と折衝し、コウリャンのしぼりかすを分けてもらい、飢えをしのいだが、3千人が飢えと寒さで死亡したという。
 厚生労働省によると、この地域で3万4600人の日本人が死亡し、うち1万3千人の遺骨は引き揚げ者が持ち帰ったものの、残る2万1600人分は今も北朝鮮に眠っている。
 終戦前後の混乱で肉親を亡くした多くの家族が墓参と遺骨返還を待ち望んでいると思われる。
 日朝赤十字協議で思い出されるのは、在日朝鮮人北朝鮮への帰還(北送)事業である。
 在日本朝鮮人総連合会朝鮮総連)などの呼びかけで、日朝両赤十字が中心になって推し進めた。   昭和34年から59年までに、日本人妻を含む9万3380人が北朝鮮に帰還した。
 当初、北朝鮮は「地上の楽園」ともいわれたが、帰還者には苦しい生活が待っていた。   特に、日本人妻は2、3年に1度の里帰りを約束されていたものの、それもかなわず、日本人であるという理由で冷遇されたといわれる。
 日本人妻の里帰りも日朝間に残された課題の一つだ。
◆密航事件で新たな発見
 しかし、日本にとって最重要課題は拉致問題である。
 平成20年8月の日朝実務者協議で、北朝鮮拉致被害者の再調査を約束した。 北はこの約束を果たすことが先決だ。
 今も日本に帰国できないでいる政府認定の拉致被害者横田めぐみさんら12人。 拉致の疑いを否定できない特定失踪者のうち、特に疑いが濃厚な失踪者は73人だ。
 特定失踪者問題調査会(荒木和博代表)は昨年6月から、失踪者が行方を絶った現場を訪ね歩いている。  北朝鮮工作員が不法侵入を図った海岸にも足を運んだ。
 秋田県では、昭和38年4月に工作員3人の水死体が能代市の海岸で見つかった能代事件を調べた。  当時の地元紙「北羽新報」の中に「黒い魚雷のようなもの」が男鹿海岸に打ち上げられたという記事を見つけた。
 警察が発表している工作員の遺留品の写真にはなく、荒木さんは「上陸用の水中スクーターではないか」とみている。
 鹿児島県では、46年10月に薩摩半島南端の海岸に工作員ら6人が侵入したことを伝えた鹿児島新報の記事を見つけた。
 6人はゴムボート2隻に分乗して上陸するのを釣り人に発見された。
 指宿署員らが捜索した結果、2人が発見され、残る4人は小型船で逃げた。 見つかった2人は朝鮮総連幹部で、逃げた4人を「知らない」と繰り返した。 指宿署はそれ以上の調べが困難とみて、2人を帰したという。
 あまり知られていない事件だ。
 荒木さんは「表に出ていない密航事件がいかに多かったかを思い知らされた」と話す。

◆“平和憲法”に安住
 たまたま工作員が日本の警察に見つかり、外国人登録法違反や出入国管理令違反容疑などで逮捕されたケースもある。   だが、いずれの法律も罰則が軽く、ほとんどの工作員起訴猶予か執行猶予付きの判決を受け、短期間で北朝鮮に帰っている。
 朝鮮総連の中央本部財政局副局長だった韓光煕(ハングァンヒ)さんは著書「わが朝鮮総連罪と罰」の中で、自分だけで38カ所の工作船接岸ポイントをつくったことを告白している。また、特定失踪者が行方を絶った時期は昭和20年代にさかのぼる。
 戦後のかなり早い時期から、北朝鮮工作員による拉致が行われていたことは、ほぼ間違いない。
 戦後日本は「平和を愛する諸国民の公正と信義」をうたった“平和憲法”に安住し、国民の生命と主権を守るための海岸線の防備や法整備を怠ってきた。
 来月は、北朝鮮金正日総書記が拉致を認めて謝罪した日朝首脳会談から10年の節目にあたる。
 最も問われるべきは、それまで拉致を放置し続けた国家の不作為責任である。(いしかわ みずほ)