・「日中友好」の旗で、40年間、いかに大きな代償を日本は支払わされたか!

・40年、日本外交はほぼ一貫して中国との友好に努めてきたにもかかわらず、その結果がこのありさまで「恩を仇で」返された。
・71年秋の国連総会では、中国(中華人民共和国)を加盟国とし、台湾(中華民国)を国連から追放するというアルバニア決議案が、多数の賛成で可決された。 これは当時の国際社会が犯した大きな誤りがあった。
・田中と大平の訪中が実現、北京で中国ペースの「日中復交三原則」に基づく日中共同声明で、一挙に国交が樹立された。同時に、大平外相談話で、日華平和条約を一方的に破棄し、台湾との国交を断絶したのは戦後日本が犯した大きな過ちだった。
・日本が供与した多額の政府開発援助(ODA)資金や超低利の円借款、様々な経済協力も、結局は、中国の経済・軍事大国化に寄与しただけだった!
・79年1月、トウ小平が来日し、「尖閣問題は次の世代、またその次の世代で解決すればよい」と語ったことに、日本側は安心してしまった。華国鋒が失脚して実権を握ったトウが改革・開放の「南巡講話」を発表した92年2月、中国は全民代の常務委員会で「領海法」を制定、尖閣諸島を中国の領土に組み入れた。 事ここに至っても、アンポンな日本政府・外務省は形式的な抗議にとどめた。
・「日中友好」の旗で、いかに大きな代償を日本は支払わされたか!

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
中国に翻弄され続けた国交40年
国際教養大学理事長・学長 中嶋嶺雄   2012.9.28 03:09 [正論]
 明日29日、日中国交樹立40周年を迎える。  本来なら日中友好の節目を画す祝賀ムードに包まれるはずなのに、尖閣諸島問題に端を発した反日デモなどで、在留邦人は身の危険にもさらされている。   進出した日本企業の工場や店舗も破壊された。   中国は、10月にも予定される次期中国共産党大会の日程さえまだ発表されないという、内政上の異例の不確実性の中にあり、国民の間に潜在する様々(さまざま)な不満も鬱積している。
 反日デモが反体制の動きを引き起こしかねないことを恐れる中国当局は、デモを規制しつつ、国民の不満が全土の反日デモで燃え尽きてくれたなら、と期待している。
≪正しい歴史的選択だったか≫ :
 この40年、日本外交はほぼ一貫して中国との友好に努めてきたにもかかわらず、その結果がこのありさまである。  となると、尖閣国有化といった個別の問題を超え、日中国交樹立そのものが正しい歴史的選択だったのかが、今こそ、原点に遡(さかのぼ)って問い直されるべきだと私は考えている。

 国交が正常化された1970年代初頭は、周知のように、中国をめぐる世界情勢が雪崩を打ったように動いた時期であった。   当時は米ソが世界の超大国として対立、文化大革命に揺れていた中国は、同じ社会主義陣営のソ連を、「社会帝国主義覇権国家と見なして激しく非難していた。
 そうした状況下で、中国は、多数派工作の先兵として、「東欧の孤児」アルバニアを最大限に利用した。  71年秋の国連総会では、中国(中華人民共和国)を加盟国とし、台湾(中華民国)を国連から追放するというアルバニア決議案が、多数の賛成で可決されたのである。
 中華人民共和国が大陸を実効支配し、台湾は亡命政権のような形で「大陸反攻」を掲げていたとはいえ、国連の原加盟国で安全保障理事会常任理事国第二次世界大戦の主役でもあった中華民国を、数の力で国連から葬り去ることは正しいのか、アルバニアに重要決議を提案する資質があるのかも検討されずじまいで、国連は急旋回したのであった。   そこに、当時の国際社会が犯した大きな誤りがあったといわねばならない。
≪台湾との断交は戦後の過ち≫ :
 中国をめぐる国際社会の急激な流れは、ニクソン米政権下の71年7月のキッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障担当)による北京隠密訪問、そして翌72年2月のニクソン訪中による米中接近につながり、世界を驚かせた。
 そこに登場したのが、日中国交を引っ提げて人気絶頂の田中角栄政権である。  わが国政財界もマスメディアも、「バスに乗り遅れるな」と中国との国交樹立に動いていった。   産経新聞を例外として、マスコミによる報道は過熱し、それに乗って田中首相大平正芳外相の訪中が実現、北京での中国ペースの「日中復交三原則」に基づく日中共同声明で、一挙に国交が樹立されたのであった。
 同時に、北京で公表された大平外相の談話によって、わが国は中華民国との間の日華平和条約を一方的に破棄し、台湾との国交を断絶したのである。
 国際法上も日本と台湾との歴史的に極めて深い結びつきからしても、戦後日本が犯した大きな過ちであった。
 以来、わが国はひたすら中国に跪拝(きはい)し、中国を刺激しないように低姿勢を貫いてきたにもかかわらず、いや、それがゆえに、今日の事態に立ち至ったのである。  この間、中国側は、靖国、教科書、歴史認識の諸問題で常に日本側に問題を突き付け、内政干渉まがいの立場を改めなかった。
 わが国が供与した多額の政府開発援助(ODA)資金や超低利の円借款、様々な経済協力も、結局は、中国の経済・軍事大国化に寄与してきただけだったように思われる。

尖閣で何もしなかったツケ≫ :
 尖閣問題はご無理ごもっとも外交の典型である。 中国が領有を唱えだしたのは、68年に、国連アジア極東経済委員会(ECAFE)の海洋調査で尖閣海域の豊富な海底資源の存在が明らかになってからだ。
 中国は、国交樹立前年の71年12月30日付の「釣魚島(尖閣諸島)に関する中国外交部声明」で明確に領有を主張していた。
 にもかかわらず、日本政府・外務省は国交樹立への流れの中で、何ら文句を言うことなく、国交樹立時にも、尖閣問題はここでは避けようという周恩来首相の提案で一切論議しなかったのである。
 さらに、79年1月、副首相のトウ小平が来日し、「(尖閣問題は)次の世代、またその次の世代で解決すればよい」と語ったことに、日本側は安心してしまった。   当時の中国は華国鋒政権だったが、その華国鋒が失脚して実権を握ったトウが改革・開放の「南巡講話」を発表した92年2月、中国は全国人民代表大会の常務委員会で「領海法」を制定、尖閣諸島を中国の領土に組み入れてしまった。
 事ここに至っても、日本政府・外務省は形式的な抗議にとどめている。秋の天皇、皇后両陛下ご訪中に賭けていたのだ。「日中友好」でいかに大きな代償を支払わされたか再確認すべき秋(とき)である。(なかじま みねお)