・日本人が忠誠を尽くして守るべき誇らしき文化的伝統をもつ国家が日本であることを憲法に明記せよ!

・7世紀に、天皇という特有の称号と固有の年号が設定され、国名を改めて「日本」として以来、1300年の連綿たる歴史が営まれてきた。  世界史上に類例をもたない「同質社会」が日本である。
・同質社会日本の発展が「自成的」である一方、異質社会中国の発展は「他成的」であった。
・英国が圧倒的な軍事力で清国を屈服させて香港島を奪取したアヘン戦争の情報に接し、日本の指導者は強烈な衝撃を受けた。
長州藩英米仏蘭連合軍の火力に圧倒され、薩摩藩が薩英戦争で脆(もろ)くも敗北するや瞬く間に攘夷論は開国論へと転じ、富国強兵の緊急性を薩長に悟らせ、これが王政復古の明治維新へとつながっていった。
・明治は「独立不羈(ふき)」の時代であった。
・大正期に入れば普通選挙法を成立させ、民主主義的法制度の整備を急遽(きゅうきょ)進めた。
・日本人が忠誠を尽くして守るべき誇らしき文化的伝統をもつ国家が日本であることを憲法に明記せよ!
・日本がこの大いなる国民共同体としての国家の凝集力を再生させねば、膨張する大陸国家とは対峙(たいじ)することも、共存することさえかなわないのではないか。





〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
「国民の憲法」考 
拓殖大学総長・渡辺利夫   2013.4.26 05:01 [正論]
 ■国民共同体の凝集力を蘇らせよ
 日本は四方を海で囲まれた「海洋の共同体」である。  おおむね、同一の国土の中で同種の人々が、孤立言語である日本語を用いながら生を紡いできた。  宗教上の争いが日本に深刻な亀裂を生じさせることもなかった。   第二次大戦直後の一時期を別にすれば、他国の占領下におかれたことはない。
 ≪自成的な海洋国の同質社会≫
 古代律令国家の時代にあっては国家形成のために中国から多くを学んだものの、10世紀初頭に唐王朝が滅亡して以来、大陸からの影響力は急速に失(う)せ、日本独自の国家秩序が形づくられていった。  7世紀に、天皇という特有の称号と固有の年号が設定され、国名を改めて「日本」として以来、1300年の連綿たる歴史が営まれてきた。  世界史上に類例をもたない「同質社会」が日本である。
 中国史は日本史とは際立って対照的である。 徳を失った皇帝は新たに天命を授かった支配者によって命を革(あらた)められ(革命)、皇帝の姓もまた易(あらた)められる(易姓)という王朝の反復転変の歴史であった。
 北方の遊牧民族騎馬民族による征服王朝がしばしば出現し、多様な民族の混淆(こんこう)する「異質社会」が中国である。  人類学用語でいえば同質社会日本の発展が「自成的」である一方、異質社会中国の発展は「他成的」であった。
 異民族の征服や反乱、権力内部の大逆や謀反に彩られた中国史に比べれば、日本ははるかに平穏な歴史を織り成してきた。  同質的で自成的な日本人の体質がそうさせたのであろう。  冒頭、日本を「海洋の共同体」だと言ったのも、そういう歴史感覚のゆえである。
 しかし、ものにはすべて両面がある。  同質的な日本人社会には、対外的な危機意識が育たず、国家観念を希薄化させたままで打ち過ごしてきた。
 18世紀、血生臭い抗争を繰り返してきた欧州の各国が、市民革命を経て近代国家を成立させ、産業革命を通じて国力と軍事力を格段に強化し、市場と領土を求めてアジアへと進出してきた。  平和を享受する鎖国下の江戸時代の日本は軍事技術の発達に関心を寄せることがなかった。
 ≪王政復古で開国、富国強兵≫
 英国が圧倒的な軍事力で清国を屈服させて香港島を奪取したアヘン戦争の情報に接し、日本の指導者は強烈な衝撃を受けた。 それから10年後に米国の黒船が来航、開港を余儀なくされ、米英仏蘭露との間で関税自主権がもてず治外法権をも許す屈辱的な不平等条約を結ばされるはめになった。
 しかし、広大なアジアがほぼすっぽり欧米列強の隷属下におかれる中で、日本が独立を守りえたことは特記されねばならない。  同質的で自成的な日本はひとたび急迫の事態に直面するや、これに抗する力を一気に凝集する高い政治的能力をみせつけたのである。  開国に対する日本人の反応が尊皇攘夷であったが、この運動は一瞬の花火のごときものであった。  長州藩英米仏蘭連合軍の火力に圧倒され、薩摩藩が薩英戦争で脆(もろ)くも敗北するや瞬く間に攘夷論は開国論へと転じ、富国強兵の緊急性を薩長に悟らせ、これが王政復古の明治維新へとつながっていった。
 王政復古は固陋(ころう)なアンシャンレジーム(旧体制)への回帰ではない。  江戸開城と同時に新国家建設の大方針を五箇条の御誓文として発布、後の近代的立憲国家創造の礎とした。  第5条「智識ヲ世界ニ求メ大(おおい)ニ皇基ヲ振起スベシ」である。  鎖国、攘夷からのこの反転こそが日本の真骨頂であろう。
 明治は「独立不羈(ふき)」の時代であった。 日清・日露戦役勝利、大日本帝国憲法制定、帝国議会召集など近代主権国家としての力量をいかんなく発揮した。 これらは同質的な日本人社会のもつ強い政治的凝集力ゆえであったに違いない。 大正期に入れば普通選挙法を成立させ、民主主義的法制度の整備を急遽(きゅうきょ)進めた。  この輝かしき同質社会の伝統を眺めるにつけ、何とも腑(ふ)に落ちないのが第二次大戦敗北後の日本人である。
 ≪腑に落ちぬGHQ憲法護持≫
 憲法とはコンスティチューション、つまりは国家の体質であり国体である。憲法すなわち国体が連合国軍総司令部(GHQ)によって押し付けられたのである。
 腑に落ちないといったのは、サンフランシスコ講和条約で日本が独立国家となったにもかかわらず、当の日本人自身が「GHQ憲法」を、後生大事に守護し「不磨の大典」のごときものとしてしまったことである。  黒く塗りつぶされた戦前史を受け入れて恬然(てんぜん)たる者が戦後の日本人である。
 護憲を叫んできた左翼やリベラル派に責めを負わせてすむ話ではない。
 彼らを生み育てたのも日本人ではないのか。
 日本人が忠誠を尽くして守るべき誇らしき文化的伝統をもつ国家が日本であることを憲法に明記せよ。
 日本がこの大いなる国民共同体としての国家の凝集力を再生させねば、膨張する大陸国家とは対峙(たいじ)することも、共存することさえかなわないのではないか。(わたなべ としお)