・曖昧な吉田茂の産物である曖昧な「灰色自衛隊」をいつ脱するかだ!

・戦時中の戦意高揚歌の一節に「いざこい、ニミッツマッカーサー」というのがあったが、実際にマッカーサー将軍が厚木に降り立つと、学校で民主主義教育が始まった。
・敗戦後、68年、民主主義日本は世界に類例のない不思議な道を歩んだ。
日本国憲法は占領下に、体罰たる日本非軍事化(ディミリタリゼーション)方針に沿って生まれた。 GHQ主導で「戦争の放棄」と戦力・交戦権の否認を謳(うた)う第9条が誕生した。
・西独は、憲法制定も49年5月と遅れた。冷戦下だったため、西独憲法には日本国憲法の前文や9条の夢想性がなく、リアリズムの塊だ。
・西独は6年後には憲法改正を経て再軍備を開始した。それから58年、今日の統一ドイツ憲法には手術の痕跡が50以上の世界記録だ。
 必要に憲法を合わせる西独の憲法実用主義プラグマティズム)が日本にはない。
日本国憲法前文と9条の裏にあるGHQの日本非軍事化政策は、一時的体罰と考えられていた。
・50年6月に朝鮮半島で冷戦ならぬ「熱戦」が始まると、米国は日本に再軍備を求め、体罰を解こうとしたが、吉田茂首相が経済の弱体を理由にこれを謝絶、妥協の産物として警察予備隊が誕生した。
・日本の間違いは吉田茂の妥協の産物としての警察予備隊から始まった。
非軍事化という一時的体罰を正式解除せず曖昧な灰色の便法が採られたのだ!
・曖昧な吉田茂の産物である曖昧な「灰色自衛隊」をいつ脱するかだ!




 



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
「8・15」に思う 
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛  2013.8.8 03:21 [正論]
■日本になかった「憲法実用主義
  敗戦時、奈良女子高等師範学校付属国民学校の5年生だった。 国民学校とは今で言う小学校。 戦時色濃厚となった時代にそう改称された。 われら「小国民」は例外なく軍国少年少女で、私なぞ、その名も勇ましい「征空鍛錬班」の一員だった。
 奈良は幸運にも空襲を免れた。それでも随所に戦争があった。集団疎開の学童が教師引率の下、すきっ腹を抱えながら軍歌を歌って登校していた。  「産めや殖やせや、子は宝」の時代ゆえ、受け入れる地元校がもともと満員だ。 そこへ集団疎開組が加わる。 教室や時間割の算段は大変だった。 だから後年、気付いた。  あの戦争に勝てるわけはなかったと。
≪GHQの非軍事化に沿って≫
  戦時下、日曜日には町内の竹槍(たけやり)訓練があった。  撃墜米機から落下傘脱出するヤンキー兵を地上で刺す、という。  週日には隣組の消火訓練もあった。  念のために言うが、失火対策ではない。
 米機による焼夷(しょうい)弾攻撃への備えだ。  父は中支戦線にいて不在。  長男たる私と母が手製の防空頭巾と消火モップを持って出てみると、どの家も同じように母と子の参加だった。  居合わす男はおじいさんばかり。
  敗戦でそれががらりと変わった。  戦時中の戦意高揚歌の一節に「いざこい、ニミッツマッカーサー」というのがあったが、実際にマッカーサー将軍が厚木に降り立つと、学校で民主主義教育が始まった。
 けれども「国民学校訓導」、つまりは先生たちがしどろもどろで、その初手は不都合な戦中教科書に墨を塗ることだった。
  爾来(じらい)68年、民主主義日本は世界に類例のない不思議な道を歩んだ。 最適例はやはり憲法問題だろう。 何しろ日本国憲法は占領下に、体罰たる日本非軍事化(ディミリタリゼーション)方針に沿って生まれた。
 制定時の1946年11月には連合国軍総司令部(GHQ)にもまだ東西冷戦への予感がなく、そのGHQ主導で「戦争の放棄」と戦力・交戦権の否認を謳(うた)う第9条が誕生。12歳の私にはそれが眩(まぶ)しかった。
≪「リアリズムの塊」西独憲法
  同じ敗戦国でもドイツは憲法どころではなかった。 占領管理方式をめぐる戦勝4国の対立で全国土が冷戦と分断の舞台と化し、西独限りの憲法制定も49年5月と遅れた。 が、何が幸いするかは別だ。
 冷戦下だったため、西独憲法には日本国憲法の前文や9条の夢想性がなく、リアリズムの塊だ。  将来の再軍備向けの布石でさえ西独自身が打っていた。 6年後には憲法改正を経て再軍備を開始。それから58年、今日の統一ドイツ憲法には手術の痕跡が50以上。世界記録だ。必要に憲法を合わせるこの憲法実用主義プラグマティズム)が日本にはない。
 日本国憲法前文と9条の裏にあるGHQの日本非軍事化政策は、一時的体罰と考えられていた。
 50年6月に朝鮮半島で冷戦ならぬ「熱戦」が始まると、米国は日本に再軍備を求め、体罰を解こうとした。
 が、吉田茂首相が経済の弱体を理由にこれを謝絶、妥協の産物として警察予備隊が誕生した。 自衛隊の前々身だ。 間には保安隊時代がある。 つまり、非軍事化という一時的体罰を正式解除せず灰色の便法が採られたのだった。
 戦後68年、法令上、日本は再軍備していない。 いまなお自衛隊は警察と軍隊の間の灰色的存在だ。 警察力は国内治安維持、犯罪取り締まり、交通警察などにみるように、対内的、国内的に働く。
 国防は警察の任務でない。 自衛隊の最重要任務は国防で、その作用は外向きだ。 国防に当たるのは本来は「軍」で、ゆえに「自衛隊」(セルフ・ディフェンス・フォース)も英語では、つまり外向きには「軍(フォース)」を名乗る。が、警察予備隊なる出自ゆえに法令上は警察系統だ。
≪「灰色自衛隊」脱するときだ≫
  近年の安保環境の変化に対応して、実体的に自衛隊は「軍」すれすれの灰色となった。 必要の結果だ。  ただ、「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じる現行憲法下では、「軍」を名乗れない。  名は体を表さず、なのである。
 諸国の「軍」は交戦規定(ルールズ・オブ・エンゲージメント)を持つ。 9条2項は概念不明確ながら交戦権を認めないので、自衛隊は「交戦規定」を持てず、代わりに「部隊行動基準」なるものを持つ。
 苦しい言い換えだが、自衛隊が「軍」と紙一重となるにつれ、この「基準」も世に言う交戦規定にうんと近づいた。
 が、現行憲法の呪縛は残る。 これが現段階。  国としての必要を満たすには、あとは憲法を変えるしかない。
  敗戦時に10歳だった少年は運命のいたずらで20世紀最後の26年間、防衛大学校に勤務した。  当初、教え子たちは私と同世代の、憲法解釈を異にする作家の「防大生は現代の恥辱」なる発言や、心ない世人の「税金泥棒」の罵声に耐えなければならなかった。だが、1年半前の内閣府世論調査では自衛隊に「良い印象」を持つ声が91・7%を記録した。  これほどの評価を享受する国防組織を私は他に知らない。 
 今後必要なのは、立派な合格点に達した自衛隊のため、憲法上正当かつ明確な位置付けを国と国民が用意することだ。(させ まさもり)