・憲法9条に関する政府解釈の最大の問題点は、いわゆる芦田修正を全く考慮に入れていないことにある。

・三条 健です。
憲法9条に関する政府解釈の最大の問題点は、いわゆる芦田修正を全く考慮に入れていないことにある。
・9条2項に、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある文言の冒頭に、「前項の目的を達するため」の字句を加えて「自衛のためならば、陸海空軍その他の戦力」の保持を可能にするのが芦田修正である。
・芦田は32年12月5日、憲法調査会で修正の理由について、こう証言している。
 「私は、一つの含蓄をもって修正を提案した。原案では無条件に武力を保有しないが、修正によって、一定の条件のもとに武力を持たないということになります。この修正によって原案は本質的に影響される。したがって、この修正があっても第9条の内容に変化がないということは明らかに誤り」
・極東委員会では、芦田の意図を踏まえて真剣な討議が行われた。中国代表は21年9月21日、「修正によって、自衛のためであれば、軍隊の保持が可能になろうと考えるのが常識である」と語っている。
 カナダ代表は、「将来、陸軍大将、海軍大将その他の将官が存在するであろうことは、全く考えられ得る。 全大臣がシビリアンでなければならないという規定があれば、現役の将官が大臣に任命される可能性はない」と発言した。
・この背景で半ば強制的に押し込まれたのが66条2項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)の条文。
文民条項と芦田修正とは不可分の関係にあることが明白に分かる。
・異常な成立過程の生んだゆがんだ憲法解釈、それが憲法9条の「戦力」解釈であり、66条2項の「文民」解釈なのだ!










〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
歪んだ「戦力」「文民」の憲法解釈 
駒沢大学名誉教授・西修  2014.3.28 03:20 [正論]

≪芦田修正考慮せぬは大問題≫
 憲法9条に関する政府解釈の最大の問題点は、いわゆる芦田修正を全く考慮に入れていないことにある。  この点については、本紙の「国民の憲法講座」第19講と第20講(平成25年11月9日付と同16日付)で論述したところであるが、政府の憲法解釈変更との関連において、必要な範囲で再論することをお許しいただきたい。
 芦田修正とは、帝国議会に提出された政府案の9条2項に、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある文言の冒頭に、「前項の目的を達するため」の字句を加えて「自衛のためならば、陸海空軍その他の戦力」の保持を可能にするというものである。昭和21年8月、芦田均を委員長とする衆議院の帝国憲法改正小委員会で決められたことから、芦田修正といわれている。
 芦田は32年12月5日、内閣に設けられた憲法調査会で修正の理由について、こう証言している。
 「私は、一つの含蓄をもってこの修正を提案したのであります。原案では無条件に武力を保有しないとあったものが、修正によって、一定の条件のもとに武力を持たないということになります。 そうすると、この修正によって原案は本質的に影響されるのであって、したがって、この修正があっても第9条の内容に変化がないということは明らかに誤りであります」
 芦田修正に対し敏感に反応したのが、日本を管理するために連合国が設けた極東委員会である。
 委員会では、芦田の意図を踏まえて真剣な討議が行われた。中国代表は21年9月21日、「修正によって、自衛のためであれば、軍隊の保持が可能になろうと考えるのが常識である」と語っている。
 カナダ代表は、「将来、陸軍大将、海軍大将その他の将官が存在するであろうことは、全く考えられ得る。 全大臣がシビリアンでなければならないという規定があれば、現役の将官が大臣に任命される可能性はない」と発言した。

≪極東委員会の議論知らず≫
 こうして、委員会は連合国軍総司令部(GHQ)を通じて、憲法に大臣がシビリアンでなければならないとする条項を導入するよう強く働きかけた。  芦田修正で自衛の軍隊が創設される→ 軍人が輩出する→ 軍人が大臣になって政治をコントロールする(ミリタリー・コントロール)状況が懸念される→ それを阻止するにはシビリアン大臣制の条項を設けなければならない−  という思考回路である。
 そうした背景で半ば強制的に押し込まれたのが66条2項(「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」)だ。
 こうしてみると、文民条項と芦田修正とは不可分の関係にあることが明白に分かる。 ところが、当時の政府は、極東委員会でどんな議論が行われていたかを全く知らなかった。  それゆえ、「文民」と「戦力」を無関係のものとして解釈するに至った。

 まず「文民」については、憲法議会で、公職追放の一環と捉え、「内閣総理大臣その他の国務大臣は、武官の経歴を有しない者でなければならない」という条項にすることを提案している。  憲法施行後には、自衛官を「文民」に入れていたが、昭和40年以降は憲法解釈を変更し、「現職自衛官文民にあらず」とした。  今では「文民にあらざる者」に、現職自衛官のほか「旧職業軍人であって、軍国主義的思想に深く染まっていると考えられる者」を含めている。
 この解釈自体、実におかしい。「軍国主義的思想に深く染まっていると考えられる」ことの判断を誰が、どんな基準で行うのか。
 国際標準では、軍籍を離脱すれば、思想を問うことなしに、全て「文民」であるとされている。

集団的自衛権の解釈も同根≫
 一方、政府は、「自衛のためといえども戦力の保持は認められない」という解釈に固執しているため、「戦力」の解釈をめぐって二転、三転してきている。
 保安隊設置時には、「近代戦争を有効適切に遂行するに足る実力」と解していたが、自衛隊の発足に伴い、この解釈を打ち止めにした。
 自衛隊を「近代戦争を有効適切に遂行するに足る実力」と認定したわけだ。  そして、「自衛のため必要最小限度を超える実力」という現行解釈に至っている。
 だが、「自衛のため必要最小限度」とはどの程度なのか。  自衛隊の装備、規模などが拡充されるに従い、繰り返し疑問が提起されてきているところである。 今や世界有数の実力集団たる自衛隊を「戦力にあらず」と言い続けるのは、非常識のそしりを免れまい。
 このようないびつな解釈をとってこざるを得なかったのは、畢竟(ひっきょう)するに、芦田修正と文民条項の不可分性を、当事者たるべき政府も議会も、知り得なかったという当時の憲法成立事情と深い関係がある。 異常な成立過程の生んだゆがんだ憲法解釈、それが憲法9条の「戦力」解釈であり、66条2項の「文民」解釈なのである。
 集団的自衛権の行使に関する政府解釈も、このような脈絡から検証される必要がある。(にし おさむ)