・容認反対をいうのであれば、集団的自衛権行使の手を縛ってもなお日本の安全が保障され得ることを説得力をもって主張するのでなければ平仄(ひょうそく)が合わない。

・日本の憲法は、異常にも、成立以来全く改正されない世界「最古」のものだ。
憲法の至高法規としての規範性は、叡智(えいち)を集め条文を時宜に応じて修正し、これを蓄積して初めて守られる。
・真の護憲とは、憲法に至高の規範性を与えるべく懸命に努める立場でなければならない。
日米安全保障条約がその前文で「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」している。
・米国は尖閣で一旦緩急あらば集団的自衛権を行使するという条約義務に忠実たらんと言っている。
自衛権を個別的と集団的とに分け、前者は行使容認だが後者の行使はこれを禁ずるなどという国は日本以外には世界のどこにもない。不思議な話である。
・海洋に向かう中国の拡張主義はとめどない。勝手な国内法をもって領海法を制定、新たに勝手に防空識別圏を設けて領域拡大の既成事実化に余念がない。
尖閣諸島での中国の陽動作戦は、日米同盟の抑止力がどの程度強固であるかのトライアルテストに他ならない。
・抑止力が脆弱だとみれば、中国は尖閣の軍事占領にまで突き進む危険性がある。
・容認反対をいうのであれば、集団的自衛権行使の手を縛ってもなお日本の安全が保障され得ることを説得力をもって主張するのでなければ平仄(ひょうそく)が合わない。
・朝日も毎日も「集団的自衛権行使の手を縛ってもなお日本の安全が保障され得ること」を説得力をもって主張したことは一度も無い。 
・到底、説得できないであろう。 悔しかったら説得力をもって主張してみなさい!






〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
集団自衛権縛り何の安全保障か 
拓殖大学総長・渡辺利夫   2014.6.10 03:24 [正論]
 第2次安倍政権の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇)が最終報告書を首相に提出した。  この報告書をもとに与党内で細目についての検討が進行中である。  日本の現行の安全保障制度を俯瞰(ふかん)して不備を洗い出し、これを正すにはどの制度をいかに変更すべきかを具体的に論じて説得力がある。出色の報告書だといえよう。
≪現実対応に憲法規範性宿る≫
 憲法とは国家の至高の法規としての規範性を示すものでなければならない。 規範性を高く維持するには、憲法をもってしては現実への対処が不可能もしくは不十分であることが判明した場合、条文を修正すべきが当然である。
 私の知っている国々では憲法は頻繁に改正されている。 日本の憲法は成立以来全く改正されない世界「最古」のものだという。
 憲法の至高法規としての規範性は、叡智(えいち)を集め条文を時宜に応じて修正し、これを蓄積して初めて守られる。 現実への対応不首尾な憲法に規範性が宿るわけがない。 憲法の一字一句をゆるがせにしてはならないという立場は「護憲」ではない。
 真の護憲とは、憲法に至高の規範性を与えるべく懸命に努める立場でなければならない。
 ましてや、民主的に選出された政治家による憲法解釈の変更までもが叶(かな)わないというのであれば、現実と規範性との距離はますます遠のく。
 いずれは憲法の規範性が毀損(きそん)され、国家を窮地に立たせることになろう。
 安保法制懇報告書の焦点は、集団的自衛権に関する旧来の政府解釈の如何(いかん)である。 日本政府の解釈によれば、集団的自衛権とは「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」だとされている。
 「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という文言を挿入することによって、集団的自衛権行使とは何かおどろおどろしきものであるかの如(ごと)き言語誘導がなされているのかと訝(いぶか)るが、それは問うまい。
≪抑止力弱れば尖閣侵攻招く≫
 過日、来日したオバマ米大統領が「尖閣は日米同盟の適用範囲である」旨を明言し、日本人の多くは安堵(あんど)の胸を撫(な)で下ろしたようである。 しかし、日米安全保障条約がその前文で「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認」している以上、大統領の明言は米国の旧来の基本方針の確認の域を出るものではない。
 要するに、米国は尖閣で一旦緩急あらば集団的自衛権を行使するという条約義務に忠実たらんと言っているのだが、片や日本の方は、集団的自衛権保有はしているものの、憲法第9条の制約によって行使は許されないという立場にある。
 自衛権を個別的と集団的とに分け、前者は行使容認だが後者の行使はこれを禁ずるなどという国は日本以外には世界のどこにもない。不思議な話である。
 日米同盟の「片務性」は、米ソ冷戦の最前線に位置する在日米軍基地の戦略的重要性が際立っていた往時にあって初めて成立した特殊な概念である。
 冷戦が終焉(しゅうえん)しパワーバランスが多元化した現在の東アジアにおいて、この概念が成立することは期しがたい。
 安保法制懇はいくつかの限定条件を付しながらも集団的自衛権容認の立場を鮮明にした。
 容認の根拠は「わが国を取り巻く安全保障環境の変化」である。この変化には、従来の憲法解釈や個別政策の更改を逐次重ねても、対応は困難だという立論である。
 海洋に向かう中国の拡張主義はとめどない。国内法をもって領海法を制定、新たに防空識別圏を設けて領域拡大の既成事実化に余念がない。尖閣諸島での中国の陽動作戦は、日米同盟の抑止力がどの程度強固であるかのトライアルテストに他ならない。抑止力が脆弱(ぜいじゃく)だとみれば、中国は尖閣の軍事占領にまで突き進む危険性がある。
≪無責任な朝日プロパガンダ
 実際、ベトナムとは西沙諸島、フィリピンとは南沙諸島で軍事衝突を引き起こし、いずれも中国はその一部を領有、軍事基地化を含む実効支配の挙に出ている。 日本が尖閣を守るには、集団的自衛権行使を容認して抑止力の一段の強化を図る以外にすべはない。
 集団的自衛権行使容認への反対はなお根強い。 根拠は朝日新聞などの論調から推察するに、容認を許すならば「国家権力の暴走に歯止めがかからなくなる」という著しい「日本不信」にある。不信というよりマゾヒズムに近い。
 容認すれば日本が戦争に加担し際限なき軍拡競争に突き進むというのは、途方もないプロパガンダである。
 あたかも中韓のジャーナリズムと「共闘」でもしているかの如くである。
 容認反対をいうのであれば、集団的自衛権行使の手を縛ってもなお日本の安全が保障され得ることを説得力をもって主張するのでなければ平仄(ひょうそく)が合わない。
 大新聞のネガティブキャンペーンは実に見苦しい。議論を少しでも建設的方向に導くのがジャーナリズムの責務ではないのか。(わたなべ としお)