政治の価値は「国家、国民の利益のために必要であるかどうか」を説くことにある!

・外交・安全保障を含む広い意味での政治を語る際に避けなければならないのは、「牧師(宗教家)」や「法律家」の発想を持ち込むことである。
・牧師、即(すなわ)ち宗教家にとって物事の価値判断の基準は、「道徳上、それが正しいか正しくないか」である。「汝、殺すなかれ」
・法律家にとっての価値判断の基準は、「法律上、それが正しいか正しくないか」である。
・政治家にとっての価値判断の基準は「それが必要か必要でないか」である。
・政治家の採るべき態度は、「道徳上、不実であろうと、あるいは法律上、怪しかろうと、それが国家、国民の利益のために必要であるかどうか」である。
・「必要性」の評価の他に、「それが賢明であるか愚劣であるか」という価値判断の基準が加わる。 政治の価値は「国家、国民の利益のために必要であるかどうか」を説くことにある!
・内閣・与党は、「憲法解釈」論議に付き合うのではなく、安保法制の「必要性」を国民各層に説くことに専念すべきである。
・野党は、正々堂々と、その「必要性」への疑義を論証しなければなるまい。
・まともな国会での安全保障論議を国民は求めている。高い税金を使っているのに、まともな議論をしないなら税金を返せ!
・安直な風潮こそが、従来、日本の安全保障論議の「堕落」と「窒息」を招いてきた要因なのである。






〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
2015.6.30 05:01更新 【正論】
安保法制論議に揺らぎ見せるな 東洋学園大学教授・櫻田淳

 6月上旬、衆院憲法審査会での参考人質疑の席で、小林節、長谷部恭男、笹田栄司の3教授は、集団的自衛権行使を織り込んだ安全保障関連法案に関して、憲法学者として「違憲」見解を示した。それは確かに「永田町」に大きな衝撃を与えたようである。
≪政治家としての価値判断≫
 外交・安全保障を含む広い意味での政治を語る際に避けなければならないのは、「牧師(宗教家)」や「法律家」の発想を持ち込むことである。
 牧師、即(すなわ)ち宗教家にとって物事の価値判断の基準は、「道徳上、それが正しいか正しくないか」である。「汝、殺すなかれ」や「不殺生」の戒律を第一に尊重する宗教家の倫理は本来、国防や治安維持に際して「暴力の行使」を当然のように織り込む政治の営みには相いれない。そして、法律家にとっての価値判断の基準は、「法律上、それが正しいか正しくないか」である。
 故に、小林、長谷部、笹田の3教授のような憲法学者を招いて、彼らに「法律家」の発想に拠(よ)る安保法制についての見解を求めれば、憲法学上の多数学説に拠った「違憲」見解が示されるのは、寧(むし)ろ当然であろう。彼らの「違憲」見解は「憲法学者の大勢は、そのように語るであろう」という話でしかない。  その後に報じられた歴代内閣法制局長官の「違憲」見解もまた、彼らが法務官僚として「法律家」の発想に拠る評価を示したものに過ぎない。
 実際、筆者が政治学徒ではなく憲法学者であれば、多分、彼らと同様に憲法学上の多数学説としての「違憲」見解を披露するのであろうと想像する。 彼らの見解に、「遂(つい)に日本の良識が示された」と悦(よろこ)ぶのも、「彼らは安全保障が分かっていないではないか」と慨嘆するのもお門違いの沙汰である。
 一方、政治家にとっての価値判断の基準は「それが必要か必要でないか」である。
 政治家の採るべき態度は、「道徳上、不実であろうと、あるいは法律上、怪しかろうと、それが国家、国民の利益のために必要であるかどうか」である。
 筆者を含む政治学徒には、そうしたニコロ・マキアヴェッリの言葉にある「必要性」(Necessit●)の評価の他に、「それが賢明であるか愚劣であるか」という価値判断の基準が加わる。
≪多面的な議論踏まえる必要≫
 政治を語る際には、宗教家や法律家とは全く異なる価値基準に拠ることが要請される。それ故にこそ、ジョージ・F・ケナン(歴史学者)は、米国外交を念頭に置き、その「道徳家的、法律家的な手法」を批判したのである。
 現下の安保法制論議の奇観は、前に触れた3教授の見解に引っ張られる体裁で安保法制の「憲法解釈」に議論の焦点が過剰に当たった結果、その「必要性」に絡む議論が消えていることにある。
 そもそも、現下の安保法制整備の下地になっているのは、多くの政治学者や外交専門家を中心にした議論の上で公表された「安保法制懇」報告書である。
 現下、政治家が手掛けるべき議論とは、その安保法制の「必要性」の検証に他ならない。安倍晋三内閣・与党は、「憲法解釈」論議に付き合うのではなく、安保法制の「必要性」を国民各層に説くことに専念すべきである。
 かたや、民主党を初めとする野党は、安保法制整備に抗(あらが)うのであれば、その「必要性」への疑義を論証しなければなるまい。
 安保法制の「必要性」の検証には、中国や北朝鮮の動向を含む安全保障上のリスクの評価から、米国を含む友好国の動向への評価、さらには日本の国力や採り得る政策選択肢の評価に至るまで、多面的な議論が要請される。そうした議論を踏まえてこその安全保障論議なのである。
安倍内閣の姿勢を支持する≫
 そうであるとすれば、現下の安保法制論議に際して、その「必要性」を多面的に検証するのではなく、「合憲か違憲か」という半ば定型的な「憲法解釈」論議に走って何かを語ったように錯覚する風潮は、いかにも安直なものである。そうした安直な風潮こそが、従来、日本の安全保障論議の「堕落」と「窒息」を招いてきた要因なのである。
 「憲法学者の見解は示された。だが、われわれは必要なことを断行する」。それが今次国会会期を9月下旬まで延長させた安倍晋三内閣の姿勢であろう。
 筆者は、安保法制の「必要性」を政治学徒として認識している故に、そうした安倍内閣の姿勢を決然として支持する。無論、現下の安保法制それ自体にも、不充分なところがあるという指摘はある。日本内外の「平和と繁栄」を担保するためには、安保法制整備だけではなく多面的な努力が要請されているという指摘にも、筆者は首肯する。
 ただし、こうした指摘もまた、安保法制それ自体の「必要性」を否定する論拠とはならない。今、安倍内閣の姿勢に不安があるとすれば、その「必要性」を国民各層に説く構えに「揺らぎ」や「迷い」、あるいは「疲れ」といったものはないかということである。(さくらだ じゅん)