・戦後日本の専守防衛はアメリカの攻撃力とセットで可能であった。

憲法9条はその成立から国際政治情勢と深く結びついている。
憲法の他の部分とは異なり、国際環境の変化と相応して理解され、時に解釈も変わらざるを得ない。
・通常の法解釈に関しては異例であっても、憲法9条に関してはその本質的性格である。
マッカーサー草案では「日本はその紛争を解決する手段としても、自衛のためすらも戦争を廃棄する」という文言が、「主権的権利としての戦争は廃止された。…日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある高邁(こうまい)な理想に委ねる」という言葉の間にはさまれている。
・後段の部分は1946年当時まだ実現が期待されていた国連集団安全保障体制を指している。すなわち、日本の戦争放棄はそもそも国際安全保障とセットで考えられていたのである。
マッカーサー草案は憲法前文と9条に分解され、その過程で国際政治構造と憲法条項の結合性は見失われていった。
・それでも「自衛のため」という文言が削除されたことに対してマッカーサーも反対しなかったのは、冷戦に向かう国際情勢の中で自衛権を明確に否定することはできないと考えたからであろう。
集団的自衛権の行使を違憲とする解釈の政策は、アメリカの攻撃的な抑止力に依拠してはじめて可能であったことを忘れてはならない。
・今日、スマート兵器の発達により、核抑止力だけでなく通常兵力による抑止が重要となった。
北朝鮮弾道ミサイルに対する防衛は、日米の対弾道ミサイルや宇宙に配備された警戒衛星などからなるシステムに依拠している。 このシステムはマッカーサー憲法ができてかなり後になって、漸くできたものだ。
・戦後日本の専守防衛アメリカの攻撃力とセットで可能であった。日米同盟なしの個別的自衛権は現状よりもはるかに強大で、攻撃的な抑止力を必要とするかもしれない。










〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
2015.7.3 05:01更新 【正論】
大国間戦争を回避する集団防衛  京都大学大学院教授・中西寛

 衆院憲法審査会に招致された憲法学者3人が政府提出の安保法制に関して問われ、こぞって集団的自衛権の行使は違憲と回答したことで、集団的自衛権の行使に関する憲法解釈問題が改めて問われることになった。特に自民党推薦の長谷部恭男教授の違憲発言が与えた衝撃は大きかった。その後も元法制局長官らが集団的自衛権違憲論(以下、違憲論)の主張を述べている。憲法学者や法制官僚の間で違憲論が強いことは間違いないであろう。
≪国際政治と結びついた憲法9条
 一般の憲法解釈について憲法学者の権威を認めることにやぶさかではないが、しかしこと憲法9条に関する限り、政治的、軍事的情勢から切り離して行われる判断は妥当とは思われない。なぜなら憲法9条はその成立から国際政治情勢と深く結びついており、憲法の他の部分とは異なり、国際環境の変化と相応して理解され、時に解釈も変わらざるを得ないからである。これは通常の法解釈に関しては異例であっても、憲法9条に関してはその本質的性格である。
 そのことは憲法9条の原点といえるマッカーサー草案に明らかである。草案では「日本はその紛争を解決する手段としても、自衛のためすらも戦争を廃棄する」という文言が、「主権的権利としての戦争は廃止された。…日本はその防衛と保護を今や世界を動かしつつある高邁(こうまい)な理想に委ねる」という言葉の間にはさまれている。
 後段の部分は1946年当時まだ実現が期待されていた国連集団安全保障体制を指している。すなわち、日本の戦争放棄はそもそも国際安全保障とセットで考えられていたのである。
 しかしマッカーサー草案は憲法前文と9条に分解され、その過程で国際政治構造と憲法条項の結合性は見失われていった。それでも「自衛のため」という文言が削除されたことに対してマッカーサーも反対しなかったのは、冷戦に向かう国際情勢の中で自衛権を明確に否定することはできないと考えたからであろう。

≪米国の抑止力に依拠した政策≫
 その後、冷戦の本格化とともに日本は日米安保体制と自衛隊の組み合わせで安全保障を図る道を選んだ。その際、自衛隊が日本防衛に専念し、自民党政権集団的自衛権の行使を違憲とする解釈をとってきたことは事実である。
 しかしこの政策は、アメリカの攻撃的な抑止力に依拠してはじめて可能であったことを忘れてはならない。
 アメリカの抑止力とは、具体的にはグローバルな核抑止力と、日本、韓国、米中国交樹立までの台湾などに配備されていた極東米軍の前方展開であった。こうした国際政治環境が、上記のような政策および憲法解釈を可能にしていたのである。
 しかし今日、スマート兵器の発達により、核抑止力だけでなく通常兵力による抑止が重要となった。
 たとえば北朝鮮弾道ミサイルに対する防衛は、日米の対弾道ミサイルや宇宙に配備された警戒衛星などからなるシステムに依拠している。この時、たとえば、公海上の米艦へのミサイル攻撃に自衛隊が対応しないと宣言することは、技術的にも政治的にもミサイル防衛システムの信頼性を低下させる。
 あるいは東シナ海で日中の海洋警察部隊間で緊張が高まったとき、中国海軍の介入を牽制(けんせい)するために日米海軍が警戒活動を行うような場合、日本がイージス艦を提供し、米艦船の防衛を受け持ったり、米イージス艦への接近攻撃への防衛を受け持ったりすることが考えられる。 こうした場合について、本来は集団的自衛権の行使として明確化すべきである。

≪個別的自衛権なら安全か≫
 アメリカは多数のイージス艦保有しているが、こうした事態に振り向ける艦船が十分とはかぎらないし、またアメリカが関与を躊躇(ちゅうちょ)する場合に、日本が米艦防護を申し出ることでアメリカの関与を強固にできる。これらは一つの可能性に過ぎず、実際にはさまざまなバリエーションが考えられる。
 憲法学者違憲論では「個別的自衛権憲法下で認められる最大限である」といった表現を目にする。しかし、個別的自衛権集団的自衛権に比べて当然により安全であるとか、軍事的強度が低いと考えることは論理的でない。 上述のように、戦後日本の専守防衛アメリカの攻撃力とセットで可能であった。日米同盟なしの個別的自衛権は現状よりもはるかに強大で、攻撃的な抑止力を必要とするかもしれない。
 たとえば、個別的自衛権合憲論から派生して、核兵器も自衛のためには憲法上は否定されないという政府見解に対して、個別的自衛権を支持する憲法学者はどのような立場をとるであろうか。
 もちろん集団的自衛権は、個別的自衛権と同様に乱用される危険があるし、実際に乱用もされてきた。
 しかしその害悪は、集団防衛体制が第二次大戦後、破滅的な大国間戦争を回避する上でなした貢献との釣り合いにおいて評価されなければならない。(なかにし ひろし)