・大学の教養を高める外国語教育は普遍的な古典文学がよい! 則ちギリシァ・ローマ神話、聖書、中世キリスト教聖者伝説、シェイクスピアの名作などだ!

・誤解として笑えぬ文系軽視
・諸大学の現場の教員達は2013年頃から事ある毎にこの文系軽視
の意向が露骨になるのを感じてゐた。
・誤解として笑つて済ますわけにもゆかない衝撃を受けたのが実際の状況だつた。
・教養軽視が今日の大学教育の大問題である事は、既に十数年も前から識者達の深い憂慮の的であつた。
・喫緊の問題は大学の学部段階に於ける外国語教育である。
・複数の外国語を学び得る制度は功利的計算とは無縁に、唯その様な学修体験を持つこと自体に若い学生の眼を広く世界の文明の多様性に向けて開かせる、正に「教養」としての意味があつた。
・速成的技能伝授としての外国語教育こそ、今現に再考すべき危機に直面してゐる。
・大学前期課程の外国語教育を、もう一度「教養」の理念に立ち戻つて整備し直す事が、実は制度としての大学教育そのものにとつての生き残りの条件である。
・教養としての外国語教育で掲げるべき理念は別段高遠な理想でも何でもない。
・具体的には、教材は近世日本の寺子屋教育の基本がそれであつた如く、普遍的な古典文学がよい。
・則ちギリシァ・ローマ神話、聖書、中世キリスト教聖者伝説、シェイクスピアの名作等の平易な近代語版でよい。
・世界文学の古典にほんの一端でも直接触れておく事の意味は、謂はば文明開化時代の国民の識字率の如きものである。動機付けは、以て教養を高めよう、の一語で十分である。
・大学の教養を高める外国語教育は普遍的な古典文学がよい! 則ちギリシァ・ローマ神話、聖書、中世キリスト教聖者伝説、シェイクスピアの名作などだ!







〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
2015.10.15 05:02更新  【正論】
大学の外国語教育のあるべき姿 東京大学名誉教授・小堀桂一郎
 本年6月8日付で文部科学相が唯一片の「通知」を以て、国立大学の人文社会系学部の、廃止を含む改組を求めた、との報道は大きな波紋を呼んだ。 学界からは学術会議が7月23日に、経済界からは経団連が9月9日に、何れも適切な反論を提出され、社会一般でも本紙紙面に見た如く、言論人諸氏のよく考へ抜かれた批判論文の掲載が相次いだ。
 結果としてあれは文科省の文章表現の不備に責任があつた、といふことで今回の紛糾は終熄(しゅうそく)する氣配(けはい)である。
≪誤解として笑えぬ文系軽視≫
 然(しか)し文科省の抱懐してゐる文系学部軽視の傾向は今夏俄に生じた事ではなく、諸大学の現場の教員達は一昨年頃から事ある毎にこの意向が露骨になるのを感じてゐた折から、6月の高飛車な「通知」に接して、遂に来るべきものが来たとの、誤解として笑つて済ますわけにもゆかない衝撃を受けたのが実際の状況だつた様である。
 筆者も昨年10月27日の本欄で、基礎学軽視の趨勢(すうせい)を憂慮する旨の意見を公表してゐる手前、その追論の形で一言現状打開への提言を述べておきたい。
 旧論で基礎学とは簡単に教養と言ひ換へてもよい旨を指摘しておいたが、この教養の軽視が今日の大学教育の大きな問題点である事は、既に十数年も前から識者達の深い憂慮の的であつた。だが教養復活の呼聲はとかく旧制高校風の教育を再生させたいとの老人達の懐古癖の如くに看做され、それに耳傾け、応ずる人の数も限られてゐた様である。
 教養といふ一般的概念をも含めて、人間の基礎的知的能力は言語力であり、それならば問題の原点は、中学高校といふ普通教育段階での国語教育にある、といふことになるのだが、国語教育一般については、別の文脈で度々論じてゐる事でもあり、限られた紙面では意を尽くせないので今回は措(お)く。
 当面喫緊の問題は大学の学部段階に於ける外国語教育である。
 大学教育に経済効果を求める風潮の最も顕著な言分、則ち大学での外国語教育は、卒業生が実社会に出た時何の役に立つてゐるのか、大半は無駄に終つてゐるのではないか、との疑念は、大学の一般教育課程で授業を担当する多数の外国語科教員自身にとつてさへ、長年にわたる悩みの種であり、時として多く自嘲の聲であり続けた。
≪学生の眼開かせる意義≫
 この反省が積み重なつた結果、実際に役に立つ外国語能力の育成を、といふ社会の要請に応へて、会話・作文等の「技能教育」としての外国語授業が重視される様になり、勢、現に実用性の高い事が明らかな英語の教育に際立つた比重がかけられる趨勢が生じた。
 曽(かつ)ては二箇国語が必修であつた大学の外国語教育は大きく様相が変つた。第三語学と呼ばれる必修以外の外国語の授業が豊かに用意されてあり、意欲のある学生は事実上死語である西洋古典語をも入れて六・七箇国語も履修可能であつた制度は今や見る影もなく衰頽(すいたい)してしまつた。
 これら複数の外国語を学び得る制度はその個々の外国語が卒業後何の役に立つか、といつた功利的計算とは無縁に、唯その様な学修体験を持つこと自体に若い学生の眼を広く世界の文明の多様性に向けて開かせる、正に「教養」としての意味があつた。
 国際社会での少数派に属する外国語の授業の開設は教員の人件費一つを取つてみても大学の経営の上では大きな負担であらうから、かかる「贅沢(ぜいたく)」なカリキュラムは今は閑却、といふよりは排除されてしまふのが現場の実情である。
 結果として、特に経営面での効率向上の要求の強い私立大学では外国語教育の理念自体が概して実用的技能教育の性格を帯び、その効果を入学志望者の増加に反映させたいとの要求も強くなる。
≪「教養」の理念に立ち戻れ≫
 然しこの速成的技能伝授としての外国語教育こそ、今現に再考すべき危機に直面してゐる。
 斯(か)く言ふ論拠は、この方針では、凡そ教育といふ営為の根柢(こんてい)的条件としての「動機付け」といふ契機に応へられないからである。
 日本の経済実業界が如何に技能としての外国語(殊に英語)能力の重要性を喧伝しようとも、民衆はそれが自分の日常生活に直接関はつてくるものではない事を感じ、又必要が生じた場合は簡単にその要求に応じてくれる諸種の民間教育施設が手近に多くある事を知つてゐる。

 大学前期課程の外国語教育を、もう一度「教養」の理念に立ち戻つて整備し直す事が、実は制度としての大学教育そのものにとつての生き残りの条件である。
 教養としての外国語教育で掲げるべき理念は別段高遠な理想でも何でもない。具体的には、教材は近世日本の寺子屋教育の基本がそれであつた如く、普遍的な古典文学がよい。則ちギリシァ・ローマ神話、聖書、中世キリスト教聖者伝説、シェイクスピアの名作等の平易な近代語版でよい。
 これ等の世界文学の古典にほんの一端でも直接触れておく事の意味は、謂はば文明開化時代の国民の識字率の如きものである。動機付けは、以て教養を高めよう、の一語で十分である。(こぼり けいいちろう)