・「報道指針」にも言う「節度と品位」を具えた電波にすれば、国民の信頼を得られよう!

・不偏不党を無視した報道は多い。
・政治がテーマの放送で不偏不党が無視された例は珍しくない。
・一方的な放送を行うことは、放送法に違反しているのではないか。
・「『説明不足』などと報じているが、メディアが安保法案について詳しく説明したことがあったのか」…。 
・『説明不足』などとたわけた報道を報じる前に、責任あるメディアが詳細に説明しろ!
・「放送法」第4条には、守るべき義務が4項あるが、その第2項には「政治的に公平であること」と明示してあり、当然、民放にも厳格に適用される。
・放送は、有限の電波資源の割り当てを受けて開局を免許され放送法を適用される事業だ。
・はねあがりからは情も理も生まれない。
 重心の低い、骨太な記者や制作陣が、確かな「自律の感覚」をもって生み出す放送こそ、国民の信頼を得、政治的教養を深めるためにも貢献できる。
・「報道指針」にも言う「節度と品位」を具えた電波にすれば、国民の信頼を得られよう!









〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
2015.11.30 05:01更新   【正論】
「テレビ局は公平を破る勇気を持て」という一部識者の煽動は浅薄なヒロイズムにすぎぬ 東工大名誉教授・芳賀綏

≪不偏不党を無視した報道≫
 自民党単独の宮沢喜一政権から多党連立の細川護煕政権へ−大転換の平成5年の総選挙を振り返り、“久米・田原連立政権”の実現として深い感慨を覚える、と小さな会で発言した放送人がいた。
 久米宏キャスターの「ニュースステーション」と、評論家・田原総一朗氏司会の討論番組と、この人気番組コンビで政権交代への世論誘導に奮闘した効果で、劇的な大転換が実現したのだと豪語したらしかった。それはひどい、不偏不党を無視した報道姿勢を誇示するとは、と非難が起き、テレビ局の要職にあった人物が、発言の主として国会に招致され、陳謝する一幕もあった。
 右のキャンペーンの中では、有力な政治家2人を悪役に仕立て、反復「ツー・ショットで映せ」と演出したのも話題になったが、似た手法はその後も続き、平成17年の“小泉劇場”選挙では、郵政民営化反対の候補者を悪玉か無能者に見立て、つぶしてしまえと煽る類いの民放番組がいくつもあった。投票行動に影響しただろう。
 選挙関係の放送に限らない。政治がテーマの放送で不偏不党が無視された例は珍しくない。近くは今年の安保法制関係の放送にも数多くの批判があった。
 放送倫理・番組向上機構BPO)にとどく視聴者意見を、月々発表の「BPO報告」で見ると「安保法制に関する放送は明らかに異常だった。意見が対立しているような事案に対して、一方的な放送を行うことは、放送法に違反しているのではないか」(5月)という指摘をはじめ、与野党それぞれに近い立場からの不満が寄せられていたが、国会審議最終局面の9月になると、次のような傾向の不満が多数になった。

≪多くの人が誤解している通念≫
 「野党寄りの偏向報道ばかりだ。公平・公正な報道ができない姿勢に疑問を感じる」「まるで日本国民全てが法案に反対しているかのように報道している。『SEALDs』の学生の主張を長時間にわたって紹介するなど、最たる例だ。まさに世論誘導に等しい」
「(反対派を主に取り上げていて)本来の安全保障法案の中身に関して視聴者に提供する様子が全く見られない。(中略)私は安全保障法案賛成と言っているわけではないが、マスメディアとは視聴者に公平な目で考えさせることが本来のあり方だと思う」「男性司会者が『メディアとして法案廃案を訴え続けるべきだ』と発言した。メディアがそんなことを言っていいのか」「『説明不足』などと報じているが、メディアが安保法案について詳しく説明したことがあったのか」…。

 たしかに、安倍晋三首相を生出演させて説明させながら、キャスターと一部のゲストの「反安倍」ばかり印象づけた夕方の民放ニュースもあった。かつて、新設の消費税について政治家が説明するのを「聞く耳持たぬ」と芸能人らがまぜっ返した某局の演出も思い出す。この8月の「戦後70年安倍談話」にも「はじめから批判ありきの放送姿勢」を指摘する声がBPOに寄せられたという。
 放送界の内外で相当多くの人が誤解している。NHKは政治的公平を厳守すべきだが民放局は偏向に構わず編集し主張してもよい、という通念だ。そんな区別はどこにも存在しない。「放送法」第4条には、守るべき義務が4項あるが、その第2項には「政治的に公平であること」と明示してあり、民放には厳格に適用されないなどとは書いてない。
 放送事業者側も、約20年前、日本民間放送連盟(民放連)とNHKが共同で定めた「放送倫理基本綱領」に「多くの角度から論点を明らかにし、公正を保持」「事実を客観的かつ正確、公平に伝え」などの文言を明記した。

≪浅薄なヒロイズムは論外≫
 日本では、昭和26年以来、かなりの民放局が新聞社主導で誕生し育成された歴史的由来もあり、新聞の類推で民放のあり方を考える趣があるが、新聞には“新聞法”などはなく、開業から発行も「社論」の明示も一切、自由だ。放送は、有限の電波資源の割り当てを受けて開局を免許され放送法を適用される事業だ。
 そこでまた放送人には誤解が生まれる。法を守って仕事したら萎縮して放送の活力が減ずる、と。放送人らしいセンスを欠き、個性的な工夫の楽しみを知らないことを告白した言だ。公平な両論併記でかえって放送は立体化し、厚みを増して盛り上がるのだ。一方のプロパガンダだけを取り次ぐのは最も安易、手抜きでしかない。
 公平を破る勇気を持て、と一部識者が煽動するのは浅薄なヒロイズムと一笑に付せばよい。はねあがりからは情も理も生まれない。
 重心の低い、骨太な記者や制作陣が、確かな「自律の感覚」をもって生み出す放送こそ、国民の信頼を得、政治的教養を深めるためにも貢献できる。
 日本の放送90年、民放65年。民放連の「報道指針」にも言う「節度と品位」を具えた電波へ。再出発する節目が訪れている。(はが やすし)