・”万世一系は、歴代天皇の連続性であるのみならず、日本文化の連続性の保証である”

・マルローは日本贔屓といわれたが、日本文化の根底にある「無常(precaire)」がわかるフランス人だった。
・スイスの心理学者・カール・グスタフユングは「キリスト教中心の西洋文明の終末は二十世紀末から二十一世紀始めにかけて到来する。そして次の文明は、ゴッドではなく、霊性の支配する時代となるであろう」と予見していた。
・ ”霊性の時代”とは、カネ・モノに執着する物質依存世界から、人間の精神世界を重視する意味にとらえるべきであろう。
・中国には策略があるが、理性のかけらもない。
・「日本人は精神の高貴さを持っています。なぜですか。仏教も、その理由の一つではないでしょうか」とのマルローの問いに、
・間髪を容(い)れず出光翁はこう答えたのだ。「そうじゃありませんね。二千六百年続いてきた皇室が原因ですよ」と。
・大天災の中で却(かえ)って強められた君民の絆は、なお尊く、真に日本の未来を照らす光ではなかろうか。
・、「日本とは、日本それ自体の国」(un pays en soi)であって、そっくりそれを受け入れるか拒否する以外はないものであると喝破した。またそれとともに、「日本とは、連綿たる一個の超越性である」(enprmanence une transcendance)とも断言した。
・”万世一系は、歴代天皇の連続性であるのみならず、日本文化の連続性の保証である”













〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
「二十一世紀は霊性の時代となるであろう」   
古沢襄  2016.02.13
■フランスのアンドレ・マルローが喝破
 フランスのアンドレ・マルローは「二十一世紀は霊性の時代となるであろう」と言っている。
 マルローは日本贔屓といわれたが、日本文化の根底にある「無常(precaire)」がわかるフランス人だった。戦後日本人よりも、もっと日本人らしいフランス知識人だったともいえる。
 またスイスの心理学者・カール・グスタフユングは「キリスト教中心の西洋文明の終末は二十世紀末から二十一世紀始めにかけて到来する。そして次の文明は、ゴッドではなく、霊性の支配する時代となるであろう」と予見していた。
 ”霊性の時代”というと、おどろおどろしいが、カネ・モノに執着する物質依存世界から、人間の精神世界を重視する意味にとらえるべきであろう。ある意味では第一次世界大戦以降、超大国になったアメリカ批判でもある。
 いまではカネがあれば何でも出来ると信奉しているのは中国なのかもしれない。
 カネ・モノに執着すれば、さらにカネ・モノが欲しくなる。悲しき人間の性(さが)なのだが餓鬼道に墜ちる。
 とどまることを知らない執着心を押さえるのは、理性であり精神の力であろう。
 中国には策略があるが、理性のかけらもない。霊性を説いても鼻でせせら笑うだけであろう。
日本は伝統的に霊性を尊んできた。山や川に霊性を感じ、自然を怖れる”おののきの心”を抱いてきた。
東日本大災害で東北の人たちは、忍従の精神でたしかな復興の歩みをしている。その東北に日本全国が敬意と同情を隠さない。こんな民族は日本だけであろう。
中国だったら暴動や略奪が横行したに違いない。
 その東北に天皇皇后は祈りの旅を重ねて寄り添ってきた。私は「霊性の時代と天皇皇后の祈り」を2011年5月に書いている。
 アンドレ・マルローと親交があった竹本忠雄さんの『天皇 霊性の時代』(海竜社)を再読して、日本という伝統国家に深い愛着を持った。

霊性の時代と天皇皇后の祈り  古沢襄
  宮崎正弘さんのブログに読者の投書欄があるが、時折、深い感動に襲われることがある。まずは、その投書を掲載してみる。
<<9日の「MSN」のトップの「トピック皇室」と云ふ欄に,竹本忠雄氏の記事が掲載されて居りまして,非常に感銘を受ける記事でありましたから,皆様にも御伝へさせて戴き度く存じあげます。
「4月28日付の本紙1面に私は大きな衝撃を喫した。天皇皇后両陛下が、畳(たた)なわる瓦礫(がれき)に向かって黙祷(もくとう)されるお姿に−。
  衝撃は、この写真の左側に載った「迷惑をかけない日本人」という記事とのコントラストで倍加した。
 ソウル支局長、黒田勝弘氏のリポートで、そこで投げられたある問いに対して両陛下のご姿勢以上に絶妙の答えはありえないと思われたからである。
黒田氏は、いま外地でも評判の、なぜ被災地の日本人はかくまでも「冷静で秩序正しい」のかとの疑問を取りあげ、韓国人の間では「諦念」「遠慮」といった評語まで飛びかっていると伝えている。
 これまでにもメディアは諸外国でのこの「なぜか」を報じてきた。
 そのつど私は、このようなメンタリティについて下される種々の憶測を興味深く思ったが、同時に、本当の理由がどこにも指摘されていないことにもどかしさを禁じえなかった。
 その「なぜか」への至上の答えを写真は黙示していると思われたのである。
 このことは私に忘れられないある対話を思いださせる。昭和49年5月、アンドレ・マルロー(仏の作家、政治家)が出光佐三(さぞう)氏(出光興産の創業者)をその美術館に訪ねたときのことである。
「日本人は精神の高貴さを持っています。なぜですか。仏教も、その理由の一つではないでしょうか」との単刀直入のマルローの問いに、間髪を容(い)れず出光翁はこう答えたのだ。「そうじゃありませんね。二千六百年続いてきた皇室が原因ですよ」と。
 たしかに、国難のいま、私たちを斉(ひと)しく打つものは、皇室、何よりも両陛下の、あの同床同高とも申しあぐべきご姿勢に表れた何かである。祈りである。
  今回だけではない。これまでの日本中の被災地めぐりだけでもない。先の戦災地、さらには南冥(なんめい)の島々まで、慰霊の旅をも、お二人は重ねてこられた。
 しかも史上、「恤民」すなわち民を哀れむは、皇道の第一義として歴代天皇の最も実践してこられたところであった。
 であればこそ、国民も常にそれに感じ、「民を思い、倹を守る」お姿以上に頭を高くすることを慎んできたのだ。被災地で命を救われたおばあさんが「すみません」とお礼を言って美談となったそうだが、このような国なればこそ、自(おの)ずと培われてきた節度なのである。
  大震災は、しかし、大地の亀裂だけでなく、これほどの国柄にもかかわらず日本人の心に生じていた分裂をも露(あら)わにした。
 国安(やす)かれとの天皇の日夜の祈りを踏みにじるような、現政権担当者たちの無知、厚顔、専横の数々は、「3・11」を待たずして既に別のツナミをもって国を水没させつつあったのではないか。
御在位20年記念の折、皇居の宮殿でのことを私は忘れもしない。事もあろうに、両陛下お招きの祝宴で最後に鳩山首相の発声もあらばこそ、片隅で、蚊のなくような幸夫人の声で辛うじて「…ばんざい」と一言、拍手もまばらだった。
  戦後66年、憲法の一行をも変ええず、民主主義を盾に政治家の皇室軽視の言動が昂(こう)ずる一方で来ただけに、大天災の中で却(かえ)って強められた君民の絆は、なお尊く、真に日本の未来を照らす光ではなかろうか。
政治家は「一寸先は闇だ」というが、祈りを通じて天皇皇后は国の全体を見透しておられる。でなくして、皇后美智子さまが、『岬みな海照らさむと点(とも)るとき弓なして明かるこの国ならむ』とお詠みになることはなかったであろう。
天皇皇后の祈りとは何か−−これを考えるべき時が来た。
昭和天皇が、崩御に先立って翌年の歌会始のために遺(のこ)されたお題は、『晴』だった。
 来年のお題は、『岸』だ。
 まだ東日本沿岸がそよとも揺れなかった今年1月、どこから、陛下のみ胸に、このヴィジョンが生まれたのであろうか」>>・・・。
竹本忠雄さんには海竜社から発刊した『天皇 霊性の時代』がある。フランスのアンドレ・マルローとの親交があって、筑波大学名誉教授の竹本さん。アンドレ・マルローは「二十一世紀は霊性の時代となるであろう。さもなくば、二十一世紀は存在しないであろう」と言ったことを紹介していた。
■竹本忠雄(たけもと ただお、1932年7月24日 ? )=日本の文芸評論家。専門はフランス文学。筑波大学名誉教授。アンドレ・マルローとの親交で知られる。東京教育大学卒業。1963年フランス留学。フランス政府より「文芸騎士勲章」、コレージュ・ド・フランスより「王室教授章」を受章。著書に『マルローとの対話』などがある。
アンドレ・マルロー(Andre Malraux, 1901年11月3日 ? 1976年11月23日)=フランスの作家、冒険家、政治家。ド・ゴール政権で長く文化相を務めた。代表作に『王道』や『人間の条件』がある。フランス語に「ドリュー・ラ・ロシェル」という言い方がある。”新しい人”といった意味だが、アンドレ・マルローはフランスの文壇にその言葉で迎えられた。

 マルローは日本贔屓といわれたが、日本文化の根底にある「無常(precaire)」がわかるフランス人だった。戦後日本人よりも、もっと日本人らしいフランス知識人だったともいえる。マルローは最初に日本にドゴール特使として来たときに、はやくも藤原隆信平重盛像と源頼朝像に関心を寄せ、ついで玉堂と鉄斎の文人画を高く評価した。昭和天皇と武士道議論をしたことも話題をよんだ。
 そして、「日本とは、日本それ自体の国」(un pays en soi)であって、そっくりそれを受け入れるか拒否する以外はないものであると喝破した。またそれとともに、「日本とは、連綿たる一個の超越性である」(enprmanence une transcendance)とも断言してみせた。

 マルローはむろんのこと苦言も呈した。たとえば、日本には海外からの覇権的な押し付けに対していくらでも選択ができる立場があるはずのに、それを全然していないじゃないかというものだ。
 これはもちろんアメリカに対する日本政府の態度を詰(なじ)っている。 日米が同盟国であればあるほどに、日本は独自の選択を発見するべきだというのだ。
多くの日本人の研究者が、やたらに中国文化にルーツを求めようとする態度も気にくわない。
 中国から日本に来たものがあるのは当然で、そんなことはフランス文化にだっていくらもおこっている外からの影響だが、問題はそんなことにあるのではなく、「愛と死と音階」によって、日本は中国とはまったく異なる文化をつくったということを強調するべきだという見方である。
 マルローの日本論で、ヨーロッパ的日本論からの脱出はどうするかを説いている。たとえば、日本の美意識が水平性にあることばかりに捉らわれないで、むしろ垂直性にこそ注目を移したらどうかといったものだ。ヨーロッパの美意識や美学をもって日本文化を見ないこと、これがヨーロッパ人マルローの日本論なのである。
 マルロー研究の第一人者である竹本忠雄さんの『天皇 霊性の時代』を私は共感をもって読んだ。杜父魚ブログにも掲載してある。
 「日本の霊性の根幹には天皇がある」という日本論は、マルローの「垂直性にこそ注目を移したらどうか」に通じるものがある。
 戦後日本人が久しく忘れていた日本文化の伝統論である。
その内容を要約すると
 嘗てユングはこういった。「キリスト教中心の西洋文明の終末は二十世紀末から二十一世紀始めにかけて到来する。そして次の文明は、ゴッドではなく、霊性の支配する時代となるであろう」。
 アンドレ・マルローは言った。「二十一世紀は霊性の時代となるであろう。さもなくば、二十一世紀は存在しないであろう」。
日本の霊性の根幹には天皇がある。
「つまり、万世一系は、歴代天皇の連続性であるのみならず、日本文化の連続性の保証である。そのことを戦後日本は忘却してしまった。しかし、霊性の時代が、いまや、忘却の淵から日本の真摯を多々直すことを要請しているのだ」・・・。(2011.05.10 Tuesday name : kajikablog)