・「即席マッカーサー憲法」を墨守するのは、ガリレオが反抗した中世ヨーロッパの不合理な、不動の宇宙観によって、縛られているのに均しい!
・今日の護憲主義が、先の戦争の惨禍に対する反動から生まれたものはなく、日本国民がアメリカの軍事保護にしだいに慣れていって、アメリカの保護を天与のものだと錯覚するうちに、支配的になったことを、教えてくれる。
・憲法も生活の道具の一つである。憲法は人間生活の手段であって、憲法のほうが目的になってはならない。
・「即席マッカーサー憲法」を墨守するのは、ガリレオが反抗した中世ヨーロッパの不合理な、不動の宇宙観によって、縛られているのに均しい!
〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
■ 憲法は人間生活の“目的”ではない
Date : 2016/06/03 (Fri) 加瀬英明
国民のなかで、憲法改正問題について、朝日新聞を参考にしている者が多いと、思う。
日本国憲法は、1946(昭和21)年11月3日に公布された。
この日、皇居前広場で新憲法公布の祝賀都民大会が開かれた。昭和天皇と皇后が、馬車で二重橋を渡られ、群衆の歓呼に応えられた。
翌日の朝日新聞の社説は、こう述べている。
「憲法は、国家の基本法であるから、しばしば改正することは、もとより望ましいことではないが、人民の福祉のために存在する法律である以上、恒(つね)に生命のあるものとしておかねばならない」
「慎重は要するが、憲法改正については、国民として不断の注意を怠らないよう心掛けるべきである」
1952(昭和27)年の憲法記念日に、日本はすでに独立を回復していた。
この日の朝日新聞の社説は、「いま憲法を改正すべきか否かについて、各人各説の論議が行われている。一つの国家が一つの憲法をもって、これを永遠に貫くことは出来ないであろう。
いかにも情勢の変化には対応しなければならぬ。しかし、果たしてその変化が、憲法を改めなければならないほどのものか、改めるに価するものかを、いまだに見きわめるに至っていない。改めざるを得ないことになるにしても、憲法を守る努力がなされて、そのうえで改めるのと、ずるずるふんぎりもなく改めるのとでは、改正の意義を生かす上に格段の差がある」と、主張している。
翌年の朝日新聞の論調も、同じものだ。
「われわれはあくまでもこの民主憲法を擁護してゆかねばならないが、それは各条項の一字一句を、そのまま永久に踏襲していかねばならないということではない。しかし、改正意見を軽々に提出する前に、もう一度、新憲法をよく読み返す必要があるのではあるまいか。(中略)改正すべき点があれば、改正点を考えてみるのがよかろう」
朝日新聞は翌年の憲法記念日に社説で、「憲法の各条文にわたって子細に検討を加えれば、その個々の内容において、手を加えるべき余地の存するものがあることは、あながち否定できないのである。
憲法改正論が結局、全面的な改正論となり、それはとりもなおさず新憲法の制定を目指すことになるのも、その当然な道程であろう。これを改正するも、それを擁護するも、一人一人の国民の決意如何にかかわることなのである」と、説いている。
その後、朝日新聞の論調が、しだいに護憲へ傾いてゆき、ついには今日の護憲主義を取るようになった。
憲法記念日ごとの社説を読んでゆくと、今日の護憲主義が、先の戦争の惨禍に対する反動から生まれたものはなく、日本国民がアメリカの軍事保護にしだいに慣れていって、アメリカの保護を天与のものだと錯覚するうちに、支配的になったことを、教えてくれる。
人間生活では、あらゆるものが相対的なものであって、流動している。そこで、人が状況に合わせてゆかねばならないはずだ。
いうまでもなく、憲法も生活の道具の一つである。憲法は人間生活の手段であって、憲法のほうが目的になってはならない。
現行憲法を墨守するのは、ガリレオが反抗した中世ヨーロッパの不合理な、不動の宇宙観によって、縛られているのに均しい。