・日本らしさを守ることが日本の心を豊かにする

・日本列島は縄文時代(紀元前1万2000年〜前4500年)の昔から、地震が頻発してきた。
・日本文化のもっとも大きな特徴は、やさしさにある。
・何よりも和を重んじるようになった。
・「色はにほへと散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ有爲(うゐ)の奥山今日こえて あさき夢みじ醉(え)ひもせず」
・形あるもの、華やかなものは、すべてうつり去ってしまう。
・中国や、西洋の国民は、即物的である。
・日本料理は、日本人の心と同じように多感で、繊細なのだ!
・日本らしさを守ることが日本の心を豊かにする








〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
九州の震災と日本の国民性
Date : 2016/05/30 (Mon)   加瀬英明

 九州の熊本県から大分県まで、地震に襲われた。
 5年前の東北の大震災の時もそうだったが、私はすぐに宮沢賢治を思い出した。
 私は小学生のころから、宮沢賢治を多くの友の1人としてきたが、いつのまにか大地震のニュースに接するたびに、賢治が頭に浮かぶようになった。
 宮沢賢治の人や自然への思いやり
 おそらく日本の作家のなかで賢治ほど人や、自然を思い遣って、やさしかった人はいなかっただろう。
 賢治が生まれる2ヶ月前の
明治29(1896)年6月に、東北が三陸津波に襲われて、岩手県だけで2万2千人以上が死んでいる。賢治が花巻で生まれてすぐに、8月31日に大地震が起って、岩手県で数千人が生命を失った。母のイチが生後4日目の賢治のうえに、覆いかぶさって守っている。
 賢治の作品は生命へのいとおしさが、何より大きな特徴となっている。作品のなかでは「かなしい」「さびしい」という2つの言葉が、どの言葉よりも多く使われている。
 私は三陸津波や、大地震の体験が、賢治の感性をつくっているにちがいないと、思ってきた。

 関東大震災直後の作品:
 関東大震災の15日後に『宗教風の恋』を書いているが、関東地方を襲った大地震津波によって、東京と8県の死者と行方不明者を合せると、14万人以上にのぼった。
 賢治は「なぜこんなにすきとほってきれいな気層のなかから、燃えて暗いなやましいものをつかまへるか。信仰でしか得られないものを、なぜ人間の中でしっかり捕へやうとするか。
 風はどうどう空で鳴ってるし、東京の避難者たちはいまでもまいにち遁(に)げて来るのに、どうしておまへはそんなに医(いや)される筈(はず)のない悲しみを、わざとあかるい空からとるか」と、綴っている。

 賢治から学んだもの:
 賢治は花巻で昭和8(1933)年に、病死した。その6ヶ月前の3月に、東北が再び地震津波によって襲われた。
 私は賢治によって、法華経を知るようになった。賢治から地涌菩薩とか、無量寿仏という言葉や、「むずかすさ」(難しさ)という方言を、習った。
 賢治の作品には方言が多く使われているが、人工的に造られた標準語よりも、血が通っていることを教えられた。
 「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は日本人の心根だ
 賢治の詩「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」は学校教科書に載っているから、日本人だったら誰だって知っている。私はまるで警視庁の交通安全のスローガンを列記したようなので、詩として好まないが、日本人の心情が溢れている。この詩は日本人のほかに、書けないと思う。
 「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ」と、「行ッテ」が3回も繰り返されていることに、5年前の東日本大震災や、今回の熊本地震に当たって、全国から被災地を救援するために、大勢がボランティアとして向かった日本人らしい、心根(こころね)を重ねあわせた。

 日本社会の一体感:
 この詩が「雨ニモ……風ニモ……雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」と始まっているのには、日本の四季が描かれている。
 東西南北に心を配っているが、日本社会に一体感があって、とても日本人らしいことだ。
 だからこそ、この詩が日本国民によって、ひろく親しまれてきたのだろう。

 地震が日本人の心を磨いてきた:
 私は賢治に親しむようになってから、東北地方の地震の記録に、関心を持つようになった。
 明治29年の三陸津波は、岩手県釜石市(現在)の東方約200キロの海底地震によって、もたらされたものだった。
 賢治はその37年後の昭和8年9月に没したが、その半年前の3月に、釜石市東方の同じ海底が震源となって強震が発生して、津波が襲来した。岩手県の被害が最大だったが、宮城県青森県の三県で3000人あまりが亡くなった。
 三陸津波の40年前に当たる安政3(1856)年にも、北海道南東部を震源地として、青森県岩手県にかけて三陸沿岸が津波によって襲われ、多数の死者をもたらした。

 地球の地震の90%は太平洋周辺:
 地球上の地震の90パーセントが、太平洋の周辺で発生することは、よく知られている。 私たちは地震と隣合わせて、生きてきた。
 『方丈記』の地震は今日も変わらず
 鴨長明は『方丈記』のなかで、鎌倉時代前期の元暦2(1185)年に京都を襲った大地震を体験して、「家の内にをれば、忽(たちまち)にひしげ(押し潰され)なんとす。 走り出づれば、地、割れ裂く。羽なければ、空も飛ぶべからず、龍ならばや、雲にも乗らむ。
 恐れの中に恐るべかりけるは、ただ、地震なりけりとこそ覚えしか」と、記している。 
 この時も余震が長く続き、「地震の事、今日に至るまで四十七日間、一日として止(や)まず、或いは四五度、或いは両三度、或いは大きく動き、或いは小さく動き、皆、毎度声有り」と、記録している。
 日蓮聖人も鎌倉時代の人であるが、その代表的な著作の1つの『立正安国論』のなかで、天変地異がしきりに起ることについて警鐘を鳴して、地震の恐しさを描いている。
 日本列島は縄文時代(紀元前1万2000年〜前4500年)の昔から、地震が頻発してきた。
 そのころから、互に無償で進んで助け合うことが、慣わしとなったのではないかと思う。宮沢賢治のやさしい心情も、東北をしばしば襲った大地震津波によって、育くまれたにちがいない。私は東北をさまざまな仕事のために訪れたが、東北の人々は頻繁に苛酷な飢饉に見舞われてきたこともあって、ことさら情が厚い。

 日本文化の特徴はやさしさにある:
 日本文化のもっとも大きな特徴は、やさしさにある。これほどまでやさしい文化は、世界に他にない。日本が島国であって、幸いなことに外敵によって、侵されることがなかったことによっても、何よりも和を重んじるようになった。
 地震や大津波は跡形もなく、すべてを破壊してしまう。そのために、日本人はうつろってゆく美しさをたっとび、物事に拘泥(こうでい)しない。 日本人にとって花が美しいのは、西洋人に理解することができないが、散るからである。
 中国人や、西洋人のように、財に執着することなく、その時々の心のありかたを尊ぶ。

 有為の奥山今日こえて あさき夢みじ醉いもせず:
 いろはうたの「色はにほへと散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ有爲(うゐ)の奥山今日こえて あさき夢みじ醉(え)ひもせず」といえば、国民の誰もがなじんでいる。形あるもの、華やかなものは、すべてうつり去ってしまう。
 いろはうたは、賢治の「雨ニモマケズ」と同じように、日本以外の国であれば、これほど国民によってひろく受けいれられることがありえない。中国や、西洋の国民は、即物的である。
 茶道も、日本に独特なものだ。思い遣りと、いたわりの心によって、つくられている。千利休(1522年〜1591年)が、「人の心をなごやかにするには、まず己の心をなごやかにすること肝要なり」と説いているが、古来から日本人に備わってきた茶人的な性格が、茶道となったにちがいない。

 和食は日本人の心、多感で繊細:
 和食は世界の料理のなかで、もっともやさしい。  自然となごんで、自然の味を楽しもうとする。 私たちは食を通じて、自然を感じようとする。日本料理は、日本人の心と同じように多感で、繊細なのだ。
 かつて日本では4、50年前までは、どこへ行っても人情が、微粒子のように空気のなかを飛びかっていた。はじめて入る一杯呑み屋の客となっても、和――情がぬくもりをもたらしてくれた。

 日本らしさを守ることが日本の心を豊かにする:
 日本でこの4、50年のうちに西洋化が進んで、老いも若きもオシャレになった。女性は化粧がうまくなった。その反面、男女とも表情が険悪になった。過ぎ去った日本が懐かしい。日本らしさを守りたい。