・真の政治家は、時流に阿(おもね)らず、自己を犠牲にして国家百年の大計を敢行しなければなりません。

・岸首相は、日本を再び独立国家としようという、信念を燃やしていた。アイゼンハワー政権のアメリカと交渉して、安保条約を改正して、アメリカに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の意志によって、延長をはかることができる期限を設けた。
・岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、朝日新聞をはじめとする大新聞や、野党などの左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。
・いまアメリカが世界秩序を守るのに疲れ果てて、内に籠ろうとしている。そのために、日本は好むと好まざるをえずに、自立することを強いられてゆこう。
・日本は1952(昭和27)年4月に独立を回復してから、国家の安全をひたすらアメリカに縋(すが)ってきた。
・日本は独立を回復して以来、“吉田ドクトリン”のもとで、アメリカに国防を委ねて、経済を優先させる、富国強兵ならぬ富国軽武装の道をとってきた。
・吉田首相は正しい国家観を、欠いていた。
・先の日米戦争はアメリカが日本に不法に仕掛けたものであり、「ルーズベルトという、狂人(マッドマン)一人に責任がある」と、糾弾している。
・岸氏は巣鴨刑務所から釈放されると、同志とともに、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。
・岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。
・日本は危険な世界のなかで生き延びるためには、急いで憲法を改正して、独立国としてふさわしい体制を、整えなければならない。なかでも、憲法第九条は日本の平和を守るどころか、日本の平和を危ふくするものである。
・「真の政治家は、時流に阿(おもね)らず、自己を犠牲にして国家百年の大計を敢行しなければなりません。大きい志を遂げようとする政治家は、毀誉褒貶(きよほうへん)が大きくなるのは当然ですが、時代が経過すれば、かえってスケールの大きさ、底力の強さが明らかになります。自己の信念を忠実に全うする政治家は近来、少なくなっています。その点で、岸先生ほど信念に忠実に生きた政治家はいませんでした」
・真の政治家は、時流に阿(おもね)らず、自己を犠牲にして国家百年の大計を敢行しなければなりません。












〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
新著のご案内 Date : 2016/07/11 (Mon)   加瀬英明

 今月、私の監修によって、『岸信介最後の回想 その生涯と60年安保』(勉誠出版)が、出版されました。
 帯に「岸信介こそ、戦後もっとも偉大な首相だった。アメリカが内に籠もり、日本は自立を強いられる。生誕120周年の今、36年ぶりに公開される談話によって、岸信介が蘇る」とうたわれています。
 監修のことばを、お読み下さい。
 本書は、岸信介首相(在職1957年〜60年)が、引退後、1980年に静岡県御殿場の自邸で、幼少時代からその日まで波瀾にとんだ人生を、2日にわたって振り返った、生まの声を録音した記録である。
 この岸元首相の回想は、今日まで発表されることがなかった。
 この時、聞き役となった、加地悦子夫人(当時・別府大学生活科教授)は、戦前、商工官僚だった岸氏宅の前に住んでいた縁で、岸氏に幼いころから可愛がられてきた。
 私は今年に入ってから、加地夫人から求められて、録音の速記録に目を通した。これまで語られたことがなかった、岸首相の信念とその人柄について、きわめて貴重な資料である    のに、驚いた。
 本年は、岸首相の生誕120周年に当たる。
 日本は対日講和条約によって、独立を回復してから64年になるが、それ以来、日本が歩んできた道が、はたして正しかったか、熟考しなければならない時を迎えている。
 私は岸首相が戦後の日本の歴代の首相のなかで、もっとも傑出した首相だったと、考えてきた。
 岸首相は1960年に日米安全保障条約の改定を、身命を賭して行った。
 吉田茂首相が1951年にサンフランシスコにおいて講和条約に調印した同じ日に、日米安全保障条約が結ばれた。
 ところが、この時の安保条約は不平等条約であって、アメリカ軍が日本に無期限に駐留することを認めていたが、アメリカが日本を防衛する義務を負っていなかった。
 アメリカ軍が対日占領の形を変えて、駐留を継続するようなことだったが、当時の日本には朝鮮戦争が勃発した直後に、マッカーサー元帥の命令によって創設した警察予備隊しかなかったから、仕方がなかったといえよう。
 岸首相は、日本を再び独立国家としようという、信念を燃やしていた。アイゼンハワー政権のアメリカと交渉して、安保条約を改正して、アメリカに日本を守る義務を負わせるとともに、両国の意志によって、延長をはかることができる期限を設けた。
 新条約は「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」と呼ばれ、経済をはじめとする諸分野において、「相互協力」することがうたわれた。
 新条約は日米関係に新しい時代を、もたらすものだった。
 新時代を象徴するために、アイゼンハワー大統領が、戦後、最初のアメリカ大統領として訪日することになった。
 しかし、岸首相は安保条約の改正を成し遂げたが、朝日新聞をはじめとする大新聞や、野党などの左翼勢力によって煽動された反対運動によって、志なかばにして辞職せざるをえなかった。
 連日、数万人という左翼のデモ隊が、国会を取り巻き、機動隊と衝突してしばしば暴徒化した。
 アイゼンハワー大統領の訪日を準備するために来日した、
 ハガティ秘書を乗せた乗用車が、羽田空港を出ようとする時に、暴徒によって取り囲まれて、立往生する事態が起った。
 岸首相はそのために大統領が来日しても、安全を守ることができないという判断から、大統領の訪日を断らざるをえなくなり、その責任をとって辞職した。
 もし、あのような大規模な反対運動がなかったとしたら、日本の歯車が狂うことはなかった。
 戦後、米ソの冷戦による対決が終わると、中国が台頭することによって、日本を取り巻く国際環境はつねに厳しいものであり続けたが、日本はアメリカの保護に国家の安全を委ねて、安眠を貪ってきた。
 ところが、いまアメリカが世界秩序を守るのに疲れ果てて、内に籠ろうとしている。そのために、日本は好むと好まざるをえずに、自立することを強いられてゆこう。
 岸氏が日本が先の大戦に敗れてから、日本がどうあるべきか、日本の未来をどのように描いてきたのか、いまこそ、私たちは学ばなければならないと思う。
 私は速記録を整理していた5月はじめに、日本の保守派の思潮を代表する月刊誌の一つの『正論』の新聞広告を見て、暗然とした。
 「総力特集 迷走するアメリカ 日本を守るのは誰か」というものだった。
 テレビや、新聞は、ドナルド・トランプアメリカのインディアナ州予備選挙を制して、共和党大統領候補として指名されることが、ほぼ確定したと報じていた。
 民主党は同州の予備選挙で、バーニー・サンダース上院議員が勝った。ヒラリー・クリントン夫人の優位が動かないものの、サンダース議員が急追していることによって、十一月に誰が大統領として当選しても、トランプ、サンダースの主張が、来年からアメリカの進路に大きな影響を及ぼすこととなろう。
 日本は1952(昭和27)年4月に独立を回復してから、国家の安全をひたすらアメリカに縋(すが)ってきた。
 “トランプ現象”とは何か。1980年にロナルド・レーガンが大統領予備選挙に挑んだ時に、カリフォルニア州知事をつとめたことがあったものの、俳優あがりのシロウトだと嘲けられた。レーガンが「アメリカに朝を招こう(モーニング・イン・アメリカ)」と呼びかけた楽観主義者(オプティミスト)であったのに対して、トランプは悲観主義者(ペシミスト)だ。
 私はCNNのニュースで、トランプが集会で演説するのをみた。トランプはこう訴えていた。「アメリカは数百億ドルを投じて、イラクにつぎつぎと新しい小学校を造ってきたが、造るごとにテロリストによって、破壊されてきた。そのかたわら、(マンハッタンの隣りにある)ブルックリンでは、小学校の校舎が老朽化して、われわれの子供たちの生命を危険にさらしている。もはやアメリカは豊かな国ではない。アメリカの力をアメリカのなかで使おう」
 サンダースは、アメリカをスウェーデンや、デンマーク型の福祉国家につくり変えようとしており、アメリカを内へ籠らせるものだ。若い男女の圧倒的な支持を、獲得している。
 アメリカのヨーロッパ化が、始まっている。かつて、ヨーロッパは世界の覇権を握っていた。しかし、その重荷を担うのに疲れ果てて、内に籠るようになった。
 日本は独立を回復して以来、“吉田ドクトリン”のもとで、アメリカに国防を委ねて、経済を優先させる、富国強兵ならぬ富国軽武装の道をとってきた。
 アメリカが迷走をはじめた、という。しかし、日本がアメリカによって占領下で強要された「平和憲法」を護符(おふだ)として恃(たの)んで、これまで迷走してきたのではなかったのか。
 “トランプ・サンダース現象”は、オバマ政権がもたらしたものだ。アメリカは、オバマ大統領が「アメリカは世界の警察官ではない」と言明したように、世界を守る意志力を萎えさせてしまった。
 いま、日米関係が大きく揺らごうとしている。まさに日本にとって、青天の霹靂(へきれき)――はげしい雷鳴である。
日本は独立を回復してから、一貫して経済優先・国防軽視を国是としてきたが、「吉田ドクトリン」と呼ばれてきた。
 この“吉田ドクトリン”が破産した。「吉田ドクトリン」は、永井陽之助氏(当時、青山学院大学助教授)が1985年に造語した言葉だが、今日まで保守本流による政治を形づくってきた。
 私は吉田首相が講和条約に調印して帰ってから、政治生命を賭けて、憲法改正に取り組むべきだったと、説いてきた。吉田首相は正しい国家観を、欠いていた。旧軍を嫌ったために、警察予備隊を保安隊、さらに自衛隊として改編したものの、独立国にとって軍の存在が不可欠であるのに、今日でも自衛隊は中途半端な擬(まが)い物(もの)でしかない。
 吉田首相と岸首相を比較することによって、戦後の日本がいったいどこで誤まってしまったのか、理解することができる。
 私は監修者の序文を一人で書くよりも、吉田茂の優れた研究者である、堤堯(つつみぎょう)氏と対談して、巻頭に載せたいと思った。堤氏は月刊『文芸春秋』の名編集長をつとめたが、吉田首相が戦後の日本に対して果した役割を、高く評価している。
 この4月に、堤氏とテレビで対談を終えた時に、私が「誰が戦後の首相のなかで、もっとも偉いと思うか」とたずねたところ、言下に「もちろん、岸信介だ」という答が戻ってきた。
 本書のために対談を行ったが、多年の親しい友人であるために、話がしばしば脱線してしまい、結局、堤氏から私が一人で書いたほうがよい、ということになった。
 アメリカのダレス特使が、占領末期に対日講和条約の締結交渉のために来日して、吉田首相に「日本が再軍備しないでいることは、国際情勢から許されない」と、強く迫った。
 吉田首相はそれに対して、「日本は経済復興のために、国民に耐乏生活を強いている困難な時期にある。 軍備に巨額の金を使えば、経済復興を大きく遅らせることになる。それに理由なき戦争にかり出された国民にとって、敗戦の傷痕がまだ残っており、再軍備に必要な心理的条件が失われたままでいる」といって、頑なに反対した。
 アメリカは、ダレス特使が来日した時に、日本を完全に非武装化した日本国憲法を強要したことを悔いていたから、独立回復とともに、憲法を改正することができたはずだった。
 吉田首相が日本が暴走したために、先の戦争を招いたと信じていたのに対して、岸首相は日米戦争がアメリカによって、一方的に強いられたと考えていた。
 日本が戦った相手のフランクリン・ルーズベルト大統領の前任者のハーバート・フーバー第31代大統領は優れた歴史家として評価されているが、その回想録のなかで、先の日米戦争はアメリカが日本に不法に仕掛けたものであり、「ルーズベルトという、狂人(マッドマン)一人に責任がある」と、糾弾している。
 フーバーは占領下の日本を訪れて、マッカーサー元帥と三回にわたって会談したが、そう発言したところ、マッカーサーが同意したと述べている。(『日米戦争を起こしたのは誰か ルーズベルトの罪状・フーバー大統領回顧録を論ず』藤井厳喜、稲村公望、茂木弘道著〈勉誠出版、2016年〉を読まれたい。)

 岸氏は敗戦直後に占領軍によって、A級戦犯容疑者として逮捕された。入獄する前に「名に代へてこの聖戦(みいくさ)の正しさを 萬代(よろずよ)までも伝へ残さむ」と詠んで、高校の恩師へ贈っている。
 堤氏は吉田首相が経済を優先して、富国軽武装の道を選んだのを、陸奥宗光(むつむねのり)外相が日清戦争後に三国干渉を受けて、遼東半島を清国に返還した時に、「他策なかりしを信ぜんと欲す」(『蹇蹇録(けんけんろく)』)と述べているのを引用して、アメリカの圧力をかわすための擬態だったと、語った。
 だが、軍を創建するのは、予算の問題ではあるまい。軍は精神によって成り立っている。独立国の根幹は、精神である。
 吉田首相は在職中に、憲法改正に熱意を示すことが、なかった。引退後も、口では憲法を改正すべきことを唱えたが、積極的に推進することがなかった。はたして擬態だったのだろうか。

 岸首相は1957年5月に、片務条約だった日米安保条約を改定するために、ワシントンへ向かった。
 吉田元首相は岸首相の滞米中に、毎日新聞に「訪米の岸首相に望む」と題して、寄稿している。
 「安保条約、行政協定の改正などについて意見が出ているようだ。しかし、私はこれに手を触れる必要は全然ないと信ずる。今までのとおりで一向差支えない。条約を結んだ以上は互いに信義をもって守ってこそ国際条約といえる。(中略)条約というものは、対等のものもあるが、不対等の条約もあって、それを結ぶことによって、国の利益になるなら私は喜んでその条約を結ぶ。下宿屋の二階で法律論をたたかわしているようなことで政治はやれない」(同年6月14日朝刊)

 岸氏は巣鴨刑務所から釈放されると、同志とともに、「憲法を改正して独立国にふさわしい体制をつくる」という旗印を掲げて、日本再建連盟を結成した。 1953年に、吉田首相の自由党から衆議院議員選挙に当選すると、憲法調査会の初代会長に就任している。  政界から退いた後にも、自主憲法制定国民会議会長として、全国をまわって憲法改正をすべきことを訴えた。
 岸首相は安保条約を改定して、アイゼンハワー大統領の訪日を成功させたうえで、憲法改正への道筋をつけることを、目論んでいた。
 岸首相は引退後に、「吉田氏の役割は、サンフランシスコ講和条約を締結したところで、終わるべきだった」と、述懐している。
 岸内閣が退陣した後は、池田勇人首相をはじめとする、いわゆる“吉田学校”によって政治が支配され、“吉田ドクトリン”のもとで、日本の迷走が続いた。
 日本の戦後は、“吉田ドクトリン”によって、律せられてきた。
 これまで、さまざまな機会をとらえて、「戦後が終わった」といわれてきたが、アメリカが超大国の座から降りることによって、日本にとって本当の意味で戦後が終わってしまった。
 私は1960年の安保騒動を、ジャーナリストとして、毎日、取材したが、後にその時の体験を、月刊『文芸春秋』に寄稿した。
 「国会を囲む道路は、熱狂して、歓声をあげながら行進する人々の長い列が、あふれるように続いた。歌声、ラウドスピーカーが叫ぶ声、林のように揺れる旗。作業服の動労の一隊が威勢よく声を掛けながら、駆け足で進んでくる。
 首相官邸の前の曲り角にくると、激しいジグザグ・デモに移り、何千という人数が渦を巻く。
 この見通すこともできない人の波は、朝からずっと切れずに続いてくる」
 岸首相が辞職すると、新しい安保条約が発効したというのに、安保条約の改定に対して国会を囲んで、あれほどまで荒れ狂ったデモが、まるで何ごともなかったように、沈静してしまった。まるで悪夢をみたようだった。
 反対運動は国民のごく一部にしかあたらない勢力によって、つくりだされたものだったのだ。
 私は「突然、新約聖書にある言葉を思い出した。『悪霊どもは、その人々から出て、豚にはいった。すると、豚の群はいきなり崖を駆け下って海に入り、溺れ死んだ。』」と、書いた。
 日米安保条約は、1970年に新条約の最初の期限を迎えるまでは、左翼勢力などによって動員された人々が街頭に繰り出して、反対することがなかった。
 いまでも左翼勢力は1959年から翌年にわたって、国会の周囲を占拠して狼藉(ろうぜき)のかぎりを働いた騒動を「安保闘争」と呼んでいるが、マスコミによって1970年の数年前から「70年危機」として喧伝(けんでん)されたにもかかわらず、ごく一部の撥ねあがった学生たちが新宿駅構内で騒ぎ立てただけで、拍子抜けしたものに終わった。
 これは、安保条約が改定された時から、日本国民の圧倒的多数が安保条約に反対する左翼勢力に組することが、まったくなかったことを、証している。
 2015年になって、安倍内閣集団的自衛権の一部行使を認める安保関連法を成立させた。この時も、民主党や、共産党などの野党や、市民グループが、連日、国会を囲んで、デモや、集会を行った。朝日新聞や、大手テレビがさかんに反対するように煽ったが、またもや、“お祭騒ぎ”に終わった。
 私は国会の近くに、仕事場を持っている。そこで、何日か続けて国会周辺に出かけて、安保関連法案に反対して、「平和憲法を守れ」とか、「戦争法絶対粉碎」というゼッケンをつけた善男善女に、質問を試みた。すると、全員が現憲法も、安保関連法案も、読んだことがないと、認めた。
 堤氏は60年安保の全学連のリーダーだった、唐牛健太郎(かろうじけんたろう)氏と親しかった。
 堤氏によれば、唐牛氏は安保条約の条文を、一度も読んだことがなかったという。
 これから、日本はどうしたらよいのだろうか。
 日本は危険な世界のなかで生き延びるためには、急いで憲法を改正して、独立国としてふさわしい体制を、整えなければならない。なかでも、憲法第九条は日本の平和を守るどころか、日本の平和を危ふくするものである。(現憲法による戦後の呪縛について、田久保忠衛氏と私との対談による『日本国憲法吉田茂』〈自由社、2017年〉を、お読みいただきたい。)
 いま、私たちは岸首相の再評価を行うことが、求められている。
 岸元首相は1987年8月に、90歳で没した。
 都内の青山葬儀所で葬儀が営まれ、中曽根康弘首相(当時)が弔辞を述べたが、今日読むと、故人の墓碑銘として、もっともふさわしいものだった。
 「真の政治家は、時流に阿(おもね)らず、自己を犠牲にして国家百年の大計を敢行しなければなりません。大きい志を遂げようとする政治家は、毀誉褒貶(きよほうへん)が大きくなるのは当然ですが、時代が経過すれば、かえってスケールの大きさ、底力の強さが明らかになります。自己の信念を忠実に全うする政治家は近来、少なくなっています。その点で、岸先生ほど信念に忠実に生きた政治家はいませんでした」