「いかさまマニフェスト」による民主党の政権交代の意義は 完璧に消失した!

・三条 健です。
鳩山内閣は、「発足当初の期待と現下の失望の落差において、戦後でも稀有(けう)の事例になりつつある」の指摘は「然り」だ。
普天間飛行場移設に絡む案件における決断の遅れは、日米関係に軋(きし)みと不安の空気を生じさせるとともに、対外政策全般の閉塞(へいそく)を招いている」の指摘も「然り」だ。
「4月に宮崎県で発生した口蹄(こうてい)疫への対応は、初期の不決断が災いした結果、宮崎県内の畜産業を壊滅に近い状態に追い込んでいる」の指摘も「然り」だ。
・対外政策にせよ産業振興政策にせよ、政治主導の名の下に粉飾された「不決断」の代償は、誠に大きく、その責任は甚大だ!
自民党も駄目!、民主党も駄目! 
いまや、国民は第三極政党に委ねる以外に術は無い。

〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

【正論】東洋学園大学准教授・櫻田淳 民主首脳による「危機の種」除け
2010.6.2 03:04
 鳩山由紀夫内閣は、発足当初の「期待」と現下の「失望」の落差において、戦後でも稀有(けう)の事例になりつつある。これは、もはや、鳩山総理の個人の言動や資質を云々(うんぬん)して済む域にとどまるものではなく、日本の政治全般の危機と評すべき域に達しつつある。

 ≪「立法は審議、執行は行動」≫
 「立法は審議し、執行は行動する」。カール・シュミット公法学者)が第一次世界大戦後のワイマール共和国期に発表した「現代議会主義の精神史的状況」という論稿の一節である。
シュミットによれば、議会主義の原理とは、「開放性」と「討論」の2つである。議会制度は、相反する様々な意見が自由闊達(かったつ)に表明され、それが調整される「討論」の過程が「開放性」を伴った空間で行われてこそ、意味を持つ。

 それ故にこそ、シュミットは、アレクサンダー・ハミルトンらが著した『ザ・フェデラリスト』を引用しながら、国民の「自由」を守るのは行政府ではなく立法府の役割であると指摘し、次のように記した。
立法権においては、意見や党派間の対立が、おそらく数多くの有益で正しい決定を妨げるかもしれないが、そのかわり少数者の議論が多数者の逸脱を抑えるのであり、そこでは、異なった意見が有用かつ必要なのである」。加えて、「主権とは、例外状況における決断のことである」という有名な言葉を残しているけれども、これもまた、行政(執行)府が、特に戦争や災害などの緊急事態に際しては、相応の「決断」に裏付けられた「行動」によって対応しなければならない事情を示したものであった。

 この「決断」の強調が後にナチス・ドイツによって利用された故に、シュミットは、第二次世界大戦後にはナチスの「御用学者」として批判されたけれども、彼は、行政府や立法府がそれぞれ手掛けるべき仕事の性格の差異を鋭敏に指摘したのである。

≪決断に基づく「行動」がない≫
 ところで、現在、われわれが眼にしているのは、この「立法は審議し、執行は行動する」の言葉に現れたものとは真逆の風景である。鳩山総理麾下(きか)の行政府は、様々な政策課題を前にして
「決断」に基づく具体的な「行動」に踏み切れない。たとえば、在沖米軍普天間飛行場移設に絡む案件における「決断」の遅れは、日米関係に「軋(きし)み」と「不安」の空気を生じさせるとともに、対外政策全般の閉塞(へいそく)を招いている。

 また、4月下旬に宮崎県で発生した口蹄(こうてい)疫への対応は、初期の「不決断」が災いした結果、宮崎県内の畜産業を壊滅に近い状態に追い込んでいる。対外政策にせよ産業振興政策にせよ、政治主導の名の下に粉飾された「不決断」の代償は、誠に大きなものである。

 片や、立法府は、小沢一郎幹事長が仕切っている民主党の圧倒的な権勢の下にあるけれども、それは、「開放性」と「討論」を旨とする「審議」の舞台として十全の機能を果たしているであろうか。

 それは、政権与党としての民主党が「異なった意見」を体現する自由民主党や他の野党を尊重しているかということだけではない。民主党内に「異なった意見」を許容する気風があるかということが、問われているのである。そもそも、議会においては、重鎮議員であれ新人議員であれ、その立場を国民から負託されている以上、同等の資格の下で「審議」に臨むのである。

 たとえば、鳩山総理や小沢幹事長の政治資金に絡む醜聞、あるいは他の議員の選挙違反に絡む不手際に関して、それを実質上、不問に付そうとするかのような党執行部の姿勢を前にして、綱紀粛正を求める国民意識を反映した「異なった意見」を表明する声が民主党内に広がらないのは、何故なのか。結果として、特に末端の民主党新人議員は、世の人々の眼には党執行部の方針に唯々諾々と従い、あるいはそれを事の理非を弁(わきま)えずに称揚するだけの存在であるように映っている。
 こうした民主党の現状は、民主党政権運営から民心を離反させている一因となっている。

政権交代唯一の意義も疑問に≫
 このように考えれば、既に20%を割り込んだ内閣支持率に示唆される民主党への逆風は、自らの堕落の故であって、国民各層の「移り気」や「無理解」の故ではない。鳩山総理が行政府における「決断」の欠如、そして小沢幹事長立法府における「開放性」と「討論」の窒息を、それぞれ象徴的に体現しているのであれば、現下の政治危機の打開には、少なくとも両人が体現する「危機の種」を民主党が自ら裁断することを通じて、「立法は審議し、執行は行動する」の原点への回帰を図るしかないのであろう。

 そうした責任を現下の民主党が果たせないのであれば、民主党政権運営は、所詮(しょせん)は「邯鄲(かんたん)の夢」の類に終わるであろうし、その時には、「政権交代可能な政治土壌」を定着させるという昨夏の「政権交代」における唯一の意義もまた、失われることになろう。(さくらだ じゅん)