無差別殺傷を無くすには、「ワークシェアリング義務化法」の法制化を急ぎ、若年層の非正規社員を無くし(但し、希望者は除く)、より良い国造りに向けて走りだせ!

・三条 健です。  またもや、無差別殺傷事件が発生した。このような事件を起すのは犯罪であり、事件に対しては犯人が悪いのは言うまでも無い。 これまでも、身勝手な犯行だと断定して、その背景について何も考慮せずに放置し続けてきている。 単純に精神異常者だと決め付けてその場その場を処理するのは如何なものか?
・無差別殺傷の背景について碓井真史・新潟青陵大大学院教授(社会心理学)は
「誰かを憎むほどの人間関係を持っていない」と指摘している。
さらに「自分だけが不当に扱われていると考え、社会への不満がどんどん募っていく」とも指摘している。
・このような無差別殺傷がこれほど頻繁に発生し始めたのはいつごろからか? 確たるデータの積み重ねは無いが、1990年以降だと感じているが、これは就職氷河期による非正規社員の増加とタイミング的には合致している。
・何回も言っているが直接的には結びつきにくいが、社会、国家に責任が皆無とは言えない。
希望の見えにくい若者にとっては、特定の人間が悪いのではなく、社会や国家が悪いと認識し、そのすり替えに対象を無差別とすることは充分に考えられる。
・また言うが、希望者は別だが、若年層の非正規社員を無くすことが重要だ! 景気が悪くても、ワークシェアリングで正規社員に採用することは充分に可能だ。 より良い社会にするのは法律で規制する必要があるので、政治の問題に帰結する。
・「ワークシェアリング義務化法」の法制化を急ぎ、若年層の非正規社員を無くし(但し、希望者は除く)、より良い国造りに向けて走りだせ!  




〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

暴走殺傷  “希望格差”はあるのか
2010年6月23日

 事件は、まだ解明段階にある。勤めていた工場内で人を次々とはねるとは言語道断だ。許されない。何の不満があったのか。似たような事件が相次ぐのは、希望が見えにくいからだろうか。

 事件はきのうの朝、広島県マツダの工場で起きた。四十二歳の元期間従業員の男が乗用車を暴走させ、歩いていた社員ら十一人を次々とはねた。

 「精神的にむしゃくしゃして、殺すつもりだった」。逮捕された後、そう供述した。車内には包丁もあった。「工場で包丁を振り回すつもりだった」と言うから、さらに惨劇となる恐れがあった。

 「クビになり、恨みがあった」と動機を口にする。そんなことで社員を無差別殺傷の標的にするのは憎むべき身勝手な犯行であり、理由にもならない。

 会社の説明では、男は半年間の契約で四月一日からこの工場で働き始めた。しかし、同月十四日に「一身上の都合」で自ら退職した。実際に働いたのは八日間だけで、特に問題はなかったという。

 思い出されるのは二年前の東京・秋葉原での無差別殺傷事件だ。

 歩行者天国にトラックで突っ込んで七人を死亡させたとして裁判中の被告は、自動車関連工場の派遣社員だった。「派遣が終わると言われ『自分は必要とされていない』と感じ、不満のはけ口だった携帯電話サイトの書き込みも無視された」ために「自分の存在を認めさせようと、復讐(ふくしゅう)を考えた」と検察側は指摘した。

 マツダの工場では二〇〇八年秋に、期間従業員など二千二百人の非正規社員が働いていたが、リーマン・ショック後の業績悪化で九十人に激減。最近の持ち直しで、再び二百人以上に増やした。

 派遣社員や期間社員が、生産の“調整弁”のように使われているのは、この工場に限らない。賃金や福利厚生など、正社員との差は歴然とある。容易に埋められるものではない。

 六年前の著書で「日本社会が将来に希望が持てる人と絶望している人に分裂していくプロセスに入った」と分析し「希望格差社会」と命名したのは山田昌弘中央大教授だった。「努力は報われない」と感じた人々から希望が消滅していくと警告していた。

 犯罪は許されず、社会一般と軽率に結びつけることは、厳に慎まなければならない。しかし、連続することに対し、警戒を怠るわけにゆかない。
東京新聞