今の世界は 丸腰で闊歩できるような生易しい理想郷にはなっていない!

オバマ大統領の言明に
「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではない。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのだ」があるという。
軍事力さえ減らせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向は 純真な少女の理想的な世界だ! 世界各国がこのような純真な少女になるなら平和はすぐに訪れる。
残念ながら、今の世界は 丸腰で闊歩できるような生易しい理想郷にはなっていない!
 

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜

日本の平和論の欠陥――戦争が必要な時がある   古森義久
2010.08.17 Tuesday

日本の「8月の平和論」の欠陥についての評論の続きを紹介します。日本ビジネスプレスに私が書いた記事の紹介の続きです。なおこの記事全体は以下のリンクで読めます。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4180

オバマ大統領が「戦争は時には必要となる」と言明していることを日本の「8月の平和論」者たちはどう論破するのでしょうか。

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「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではない。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのだ」この言葉は米国のオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。

ノーベル平和賞を授賞したオバマ大統領は「平和維持のための戦争」に決意を示した〔AFPBB News

平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも、平和ではある。

もしくは「自由なき平和」もあり得る。戦争はないが、国民は自由を与えられていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。

さらに「不平等の平和」「貧困の平和」と言えば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさを極めるが、戦争はない、ということだろう。

日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切問われない。とにかく戦争さえなければよい、という姿勢なのだ。その背後には軍事力さえ減らせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。

この8月6日の広島での原爆被災の式典で、秋葉忠利市長が日本の安全保障の枢要な柱の「核の傘」、つまり核抑止を一方的に放棄することを求めたのも、その範疇だと言える。自分たちが軍備を放棄すれば他の諸国も同様に応じ、戦争や侵略は起きない、という非武装の発想の発露だろう。

一切抵抗せずに服従するという平和論
平和を守るための、絶対に確実な方法というのが1つある。それは、いかなる相手の武力の威嚇や行使にも一切抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。

そもそも戦争や軍事力行使は、それ自体が目的ではない。戦争によって自国の領土を守る、あるいは自国領を拡大する、経済利益を増す、政治的な要求を貫く、などなど、達成したい目標があり、その達成を多様な手段で試みて、平和的な方法では不可能と判断された時に、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使に至るのである。

だから攻撃を受ける側が相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は起きない。服従や被支配となるが、戦争だけはない、という意味での「平和」は守られる。(つづく)