「国益」に対する中長期的な考慮の中での「布石」の筋道が見えるように行動せよ!

櫻田氏は
「そろそろ、菅総理の言葉にある「『現実主義』に立脚した外交」が片鱗(へんりん)だけでも示されなければ、鳩山由紀夫前内閣以来の「国益」の侵食は、止まらないのではないか?」と心配している。 
私たちも同様に懸念している。

永井陽之助教授は、英国外交から倣(なら)うべきものの一つとして、「狡猾(こうかつ)さ」(guile)の感性を挙げたとも主張している。
国益」に対する中長期的な考慮の中での「布石」の筋道が見えるように行動せよ!

〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

【正論】東洋学園大学准教授・櫻田淳 
   英国流なら「狡猾さ」にも学べ
2010.8.26 03:02


 菅直人総理が就任以来、手掛けた対外政策判断の中で目立ったものは、金賢姫北朝鮮工作員の招待と日韓併合100年を機にした菅談話の発表であろう。この2つの政策対応は、それぞれ別々のものであるけれども、菅内閣の対外姿勢を期せずして炙(あぶ)りだした。

≪性格が曖昧な首相談話≫
 先ず、金賢姫工作員の招待は、費用対効果の観点からしても、その意義が疑わしい政策対応であった。彼女の招待には、邦人拉致案件への対応といった説明が付されたけれども、彼女から必要な証言を得るためならば、相応の費用を投じた日本招待は、無駄な対応であろう。
 大体、彼女は、少なくとも北朝鮮出国以後の二十余年の事情に関して、どのような「新情報」を持ち得るというのであろうか。
 次に、菅談話の発表もまた、それ自体としては意義や性格が曖昧(あいまい)な政策判断であったと評せざるを得ない。
 筆者は、従来の日韓関係の経緯を踏まえる限りは、日本政府が何らかのステートメントを出さないのも奇妙なことであると考えてきた。しかし、菅談話に絡む最大の難点は、それが日本の「国益」とどのように結び付いているかが判然としないことにある。
 良好な日韓関係の維持それ自体には、総論としては誰も異論を唱えないであろうけれども、菅内閣は、今後の対韓関係の中で此度の談話を、どのように位置付けようとしたのか。北朝鮮情勢への対応を念頭に置き、安全保障上の日韓提携を加速させようという思惑があるのか。それとも、たとえば日韓FTA(自由貿易協定)樹立を睨(にら)んだ経済・産業振興政策上の算段が働いているのか。
 そもそも、諸々の政策対応の一つ一つは、自らの「国益」に対する中長期的な考慮の中での「布石」として位置付けられるべきものである。谷垣禎一自民党総裁が菅談話発表に際し、「未来志向の関係に逆行しないように…」と釘(くぎ)を刺したのは、そうした「布石」の筋道が見えないからに他ならない。

≪永井教授の主張に倣えば…≫
 振り返れば、菅総理所信表明演説で学生時代に薫陶を受けた政治学者として言及した故永井陽之助教授は、英国外交から倣(なら)うべきものの一つとして、「狡猾(こうかつ)さ」(guile)の感性を挙げた。
 菅総理が演説の中で紹介した永井教授の四十余年前の著書『平和の代償』には、「国際政治は、幼稚園の遊戯ではないから、みんな仲良く、お手々つないで、というわけにはいかない」と記されている。日本は、従来、二大政党や議会における「党首討論」の制度、そして直近では「マニフェスト」(政権公約)を掲げた選挙手法といったように、国家の「統治」に関わる多くを英国に倣おうとしてきた。
 けれども、戦後、現在に至るまで、日本では、こうした英国外交の「狡猾さ」に倣おうという空気が希薄なのは、何故なのか。
 もっとも、菅総理は、永井教授に倣う体裁で、「『現実主義』に立脚した外交」を展開すると表明している。故に、菅総理の表明した通りであるならば、元工作員の招待にせよ菅談話の発表にせよ、菅内閣下の対外政策判断には、筆者を含む内閣の部外の人々には与(あずか)り知らぬ「術策」が組み込まれているのだと想像しても、それを噴飯ものの類(たぐい)と決めつけることは、決して公正ではあるまい。「術策」とは、その意図が誰にでも察知できる事態は、好ましくない。率直にいえば、筆者は、そうした「術策」が菅内閣において密(ひそ)かに進行しているのであれば、それを大いに期待する。

≪「善意」が前面に出すぎる≫
 ただし、そうであるならば、菅内閣下における対外政策判断が、日本国民の全般的な利害の増進に、どのように寄与するのかは、適切に説明される必要がある。
 金賢姫来日に際して、彼女が「悲劇のヒロイン」であるかのような待遇を与えたり、菅談話に「痛みを与えられた側はそれを容易に忘れることは出来ない」という文言が盛り込まれたりしたように、情緒的な空気だけが漂うようでは、そうした「術策」の有り様に対する説得性が失われる。
 人間の「善意」に基調としては信を置かないのが、国際政治学における「現実主義学派」の政治認識の一つの「型」であるけれども、菅内閣の政策判断には、「善意」が前面に押し出され過ぎている嫌いがある。それとも、菅内閣が披露する「善意」とは、筆者の懸念とは異なり、自覚的に練られた「術策」の裏付けを持つ「偽善」の類なのであろうか。
 菅総理は、永井教授の「現実主義」から何を体得したのか。少なくとも、元工作員の招待や菅談話の発表といった政策判断からは、そうしたことは明瞭(めいりょう)には浮かび上がってこない。
 そろそろ、菅総理の言葉にある「『現実主義』に立脚した外交」が片鱗(へんりん)だけでも示されなければ、鳩山由紀夫前内閣以来の「国益」の侵食は、止まらないのではないか。(さくらだ じゅん)