多くのどんな談話より、歴史事実の証拠が厳然とあることを示せ! 証拠は1度で済む!

・三条 健です。
渡辺利夫学長は
「いくら以下記述のような議論を重ねても、併合条約が有効か無効かの議論を日韓で一致させることは期待できそうにない。ならば、語られるべきは過去ではなく、現在と未来でなければならない。」と言っている。 同感です。
 
・「李朝時代末期の韓国は、時に清国、時にロシア、時に日本と、周辺の大国に依存しようという「事大主義」の傾向を強め、自立と近代化への展望を欠いて政争に明け暮れた。
当時の韓国は清国と君臣関係(清韓宗属関係)にあり、韓国内で内乱が起こるたびに清国に派兵を要請した。
日本がこれを脅威と見立てたのは当然であり、清韓宗属関係を断ち切るための戦争が日清戦争であった。」とも言っている。

・何はともあれ、
日本の韓国統治は幾重にも国際的に承認され、併合への道を阻止するものはなかった。各国との合法的な条約や協定に則って日本の韓国統治が展開されたという事実は ロシア、イギリス、アメリカが良く知っているし、その歴史事実の証拠がある。 多くのどんな談話より、歴史事実の証拠が厳然とあることを示せ! 証拠は1度で済む!

〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

【正論】拓殖大学学長・渡辺利夫 
    現在の価値観で過去断罪するな
2010.8.27 03:17

 韓国併合日韓併合)条約は1910年8月22日に調印され、同29日に発効した。併合100年を機に菅直人氏の首相談話が、過日発表された。往時の日韓関係についての事情を顧みることなく、謝罪自体を自己目的としているがごとき談話であった。

≪謙虚で率直で勇気あることか≫
 「当時の韓国の人々は、その意に反して行われた植民地支配によって、国と文化を奪われ、民族の誇りを深く傷付けられました。…この植民地支配がもたらした多大の損害と苦痛に対し、ここに改めて痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明いたします」
 ここまで踏み込んでいいのか。談話はさらにこういう。「私は、歴史に対して誠実に向き合いたいと思います。歴史の事実を直視する勇気とそれを受け止める謙虚さを持ち、自らの過ちを省みることに率直でありたいと思います」
 現在の価値観をもって往時の日韓関係を眺め、“そういうことはあるべきではなかった”と考えることが、どうして謙虚で率直で勇気のあることなのだろうか。併合条約を有効だとする日本が、条約自体を無効だと言い張る韓国に謝罪の言葉をいくら積み上げたところで、相手を満足させることなどできはしない。道義において自国がいかに劣っていたかを強調すればするほど、姑息(こそく)と卑屈にみずからを深く貶(おとし)めるだけである。現在の価値観で過去を論じることのいかがわしさに、もうこのあたりで気づかねばならない。
 
≪各国との合意による合法統治≫
 李朝時代末期の韓国は、時に清国、時にロシア、時に日本と、周辺の大国に依存しようという「事大主義」の傾向を強め、自立と近代化への展望を欠いて政争に明け暮れた。当時の韓国は清国と君臣関係(清韓宗属関係)にあり、韓国内で内乱が起こるたびに清国に派兵を要請した。日本がこれを脅威と見立てたのは当然であり、清韓宗属関係を断ち切るための戦争が日清戦争であった。
 シベリア鉄道が完成してしまえば、ロシアが朝鮮半島の占領へと向かう可能性は十分にあった。当時、ロシアは満州中国東北部)に強大な軍勢を張っており、日本人の多くがロシアを「北の脅威」とみていた。

ロシアによる朝鮮半島の占領は、すなわち日本の亡国の危機である。そうであれば併合によって韓国の近代化を図り、半島の守りを固めることは日本にとってどうしても避けられない安全保障上の戦略であった。

 日露戦争とは、ロシアの南下政策に抗して、日本が韓国の「自由裁量権」を獲得しようとして戦った戦争である。自由裁量権とはいかにも“あけすけな”表現だが、弱者に「安住の地」がなかった帝国主義時代の用語法である。
 日本の韓国における自由裁量権は、ポーツマス条約でロシアにより、また日英同盟下のイギリスにより認められた。さらには日本は米国との間でも、日本が米国のフィリピン領有を承認し、米国が日本の韓国統治を承認するという桂・タフト協定を結んでいた。
日本の韓国統治は幾重にも国際的に承認され、併合への道を阻止するものはなかった。各国との合法的な条約や協定に則って日本の韓国統治が展開されたのである。
 
≪近代化は日本の支援によって≫
 併合は韓国人にいまなおつづく鬱屈(うっくつ)であろう。日本人にとってもこんな手荒なやり方ではなく、別の方法を選択することができなかったかという思いはある。日本が韓国の独立を承認して韓国の近代化を助力し、2国の善隣関係を保ちながら「共に亜細亜を興す」(福澤諭吉)友邦たりえたとすれば、それに越したことはなかったであろう。しかし、現時点に立って判断してもそれは不可能事であったといわねばならない。
 1つには、日本の開国維新のような、近代化へと向かう挙国一致の政治的凝集力が韓国の中から生まれてくる可能性を期待することはできなかった。
 2つには、相当の軍事力を温存したまま敗北を余儀なくされたロシアが対日報復の挙に出ることを日本人は恐れていた。日本人がこの恐怖から解放されるには、革命によってロマノフ王朝が完全に崩壊するまで待たなければならなかった。

 韓国は日本の強圧によって結ばされた併合条約は無効だというが、往時の韓国民の中にも自国のみで韓国の近代化を図ることは無理であり、日本との「合邦」により日本の支援を受けながら近代化を実現するより他なしと考える一群の有力な人々が存在したことは指摘しておかねばならない。
李容九、宋秉●などをリーダーとする「一進会」に集った人々である。統監府の資料によっても参加者は14万人、実際には数十万人に及ぶ当時の韓国最大の社会集団であった。首相桂太郎をして併合を決意せしめたものが彼らによる合邦への要請にあった。
 しかし、いくらこういった議論を重ねても、併合条約が有効か無効かの議論を日韓で一致させることは期待できそうにない。ならば、語られるべきは過去ではなく、現在と未来でなければならない。(わたなべ としお)