・海軍力を増大した覇権&帝国主義共産党独裁中国の東シナ海進出の脅威は 蒙古襲来以来の危機だ!

・海軍力を増大した覇権&帝国主義共産党独裁中国の東シナ海進出の脅威は 蒙古襲来以来の危機だ!
・「かつて、中国が国力を外に向かって広げた時期はいくつかあった。そのため日本が危機に陥った最も近い例は、約750年前の蒙古襲来である。モンゴルの皇帝フビライが中国・大都(北京)に都を遷(うつ)し、国号を「元」と改めたのは西暦1271年だった。」
「中国13億の民が貧しさから脱し始め、GDP(国内総生産)では日本を抜いて世界第2位まで躍り出ようとしている。東シナ海南シナ海への進出は、急速な国力の伸長を世界に向けて誇示していると見ることができる。」
・モンゴルが世界帝国をつくりあげた13世紀にあって、日本はその侵略をはね返すことのできた数少ない国である。

・外交において相手国の真意や戦略を冷静に分析することや、危急の折に心を一つに国民がまとまる重要さは今も変わらない。


〜〜〜メディア報道の一部<参考>〜〜〜

【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明 
 「蒙古襲来」に何を学ぶか   2010.10.23 04:28
◆膨張するエネルギー:

 先月初旬、尖閣諸島沖で起きた中国漁船衝突事件をきっかけに、中国の東シナ海進出の脅威が身近なものと感じられるようになってきた。
 民主党政権は、戦略的互恵関係は不変として「事件発生以前に戻りつつある」(菅直人首相)との見解を表明している。だが、事態はそれほど楽観できるものではあるまい。
 準大手ゼネコン「フジタ」の社員は全員解放されたものの、先週末からは中国各地で反日デモが相次いでいる。「尖閣は中国領」という主張は引っ込めていないし、中国による東シナ海のガス田開発も、着々と進められている。
 中国13億の民が貧しさから脱し始め、GDP(国内総生産)では日本を抜いて世界第2位まで躍り出ようとしている。東シナ海南シナ海への進出は、急速な国力の伸長を世界に向けて誇示していると見ることができる。

 かつて、中国が国力を外に向かって広げた時期はいくつかあった。そのため日本が危機に陥った最も近い例は、約750年前の蒙古襲来である。モンゴルの皇帝フビライが中国・大都(北京)に都を遷(うつ)し、国号を「元」と改めたのは西暦1271年だった。
 蒙古はアジアでは朝鮮(高麗(こうらい))と南宋ベトナムに遠征軍を送り、東の端の島国である日本も服属させようとした。文永5(1268)年正月、フビライ使節が国書を持って来日する。

◆朝廷と幕府の外交感覚:
 《日本は開国以来、時々中国に通交している。しかし私の代になってからはやってきていない。今後、互いに使いを行き来させ親睦(しんぼく)を深めたい》
 おだやかな表現の国書ではあったが、最後には「兵を用いること(戦争)は、だれも好むところではないであろう」と、恫喝(どうかつ)の文言も添えられていた。
 国書を受け取った朝廷と鎌倉幕府はさまざまに議論を重ねた。そして朝廷は、次のような内容の返書を出そうとした。

《貴国は凶器を用いようとしている。貴国の皇帝に徳があるなら、どうして人々を殺傷する源を開くのか…》

 ところが反対に、幕府の対応は厳しかった。文永5年、18歳の青年執権、北条時宗は朝廷の返書を握りつぶし、九州の防備を固める。武力衝突は避けがたいと感じたからであった。
 時宗が帰依した鎌倉円覚寺住職、無学祖元(むがくそげん)はモンゴルによって追われた宋僧で、あやうく蒙古兵に殺されかけた体験もあった。朝廷と違って時宗は蒙古の怖さ、酷薄さを身近な師から教え込まれていたのである。
 モンゴルはそれまでの未開から、文明に躍り出ようとしていた。膨張するエネルギーは、ヨーロッパやアジアへの侵略という形で広がっていった。 日本にも生半可な見通しで遠征してきたのではなかった。大型の艦船や「てつはう」(炸裂(さくれつ)弾)、毒矢のような新兵器を持っていただけでなく、耕作用の農具や種モミまで携え、上陸ののちは駐屯して支配する計画すらあった。

◆「神風」は吹かずとも:
 そんな蒙古軍をはね返すことができた主たる要因は、神話のような「神風」ではない。島国という地政学上の利点が大きかったし、何より幕府の軍事的な指揮権がはっきりしていたことである。鎮西奉行の少弐(しょうに)氏らを中心に九州の守りが固められ、諸国の御家人が駆けつけた。 「文永の役」(1274年)こそ博多の街が焼かれたが、「弘安の役」(1281年)では、博多湾沿いに築かれた防塁(石築地(ついじ))の効果も発揮され、約15万人もの蒙古・高麗連合軍はほとんど上陸すらできなかった。
 「北部九州は一時的に占領されたとしても、武士たちは執拗(しつよう)なゲリラ戦を展開し、蒙古は結局日本を放棄してしまわざるをえなかった」(『鎌倉時代』)と書いたのは、中世史家の上横手雅敬(うわよこて・まさたか)・京都大名誉教授である。

 モンゴルが世界帝国をつくりあげた13世紀にあって、日本はその侵略をはね返すことのできた数少ない国である。しかしこのことは戦後の歴史学では、ほとんどといっていいほど評価されなかった。「神国ゆえに日本は蒙古による征服を免れた」という、皇国史観への反省からである。
 以上はもちろん昔の話である。ただちに現代の東アジア情勢と比較するのは正しくない。しかし、外交において相手国の真意や戦略を冷静に分析することや、危急の折に心を一つに国民がまとまる重要さは今も変わらない。

 蒙古襲来と日本外交、さらにはこの防衛戦争の実相を認識し直すことは、意味があるだろう。(わたなべ ひろあき)