共産主義の支配の拡大のために機会さえあれば、武力侵攻も辞さないから、日本は自国を守るためにある程度の防衛力を整え、足りないところは民主主義の価値観を共有する同盟国の米国に頼るべきだ!

・三条 健です。  関嘉彦氏の考え方が大事だ!
・第二次大戦直前のイギリスが消極平和主義を唱え、軍備を減らすことでナチス・ドイツの侵略を容易にした経緯や、軍備が戦争を招くのではなく、逆に平和を守ったスイスの実例の歴史がある。
・「自分も戦争には反対したが、祖国がいったん興亡をかけた戦いに突入すれば、自国が敗れればよいと考える人間は知識人の名に値しない」
・西欧の民主社会主義への共鳴を示しながら、自国の価値観を守るための日本の防衛の必要性を説く。
ソ連共産主義の支配の拡大のために機会さえあれば、武力侵攻も辞さないから、日本は自国を守るためにある程度の防衛力を整え、足りないところは民主主義の価値観を共有する同盟国の米国に頼るべきだ!
これは中国にも言える。

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜

日本は白旗と赤旗を掲げて降伏?
古森義久      2010.11.08 Monday

 日米同盟についての私の連載記事の紹介です。日本の防衛をめぐって1979年に異色の論争が起きました。早稲田大学都立大学の教授を務めた関嘉彦氏とロンドン大学教授の森嶋通夫との大論争です。そのなかで森嶋氏は「日本がもしソ連に侵略されれば、戦うことはせずに、白旗と赤旗を掲げて降伏すればよい」と主張しました。

■降伏論から日米防衛強化論へ
 東京での政治記者としての私は首相官邸だけでなく外務省、防衛庁自民党などの記者クラブにも入って、取材活動を続けた。日本側の安全保障政策にかかわる政治家や官僚、さらには学者からも話を聞くようになった。日米同盟への日本側の取り組みの現実を知るうえで有益だった。
 その過程で社会思想史の研究で著名な学者の関嘉彦氏を知ったことは特に貴重だった。関氏は1983年のそのころ民社党参議院議員となり、国政の場でも 日本の安全保障を積極的に論じていた。ただし関氏のこの分野での言論活動は私はその以前から知っていた。79年に話題を集めた「関・森嶋防衛論争」が端緒である。
 この論争は関氏が産経新聞に書いた論文に対し、ロンドン大学の教授だった森嶋通夫氏が北海道新聞に反論を載せたことから始まった。その後、2人は舞台を月刊誌の文芸春秋に移し、他の多数の識者をも巻き込んで日本の防衛がどうあるべきかを激しく論じたのだった。
 簡単にいえば、関氏はソ連共産主義の支配の拡大のために機会さえあれば、武力侵攻も辞さないから、日本は自国を守るためにある程度の防衛力を整え、足りないところは民主主義の価値観を共有する同盟国の米国に頼るべきだ、という主張だった。一方、森嶋氏は核兵器を持つソ連に日本はかなうはずがないから非武装中立を目指し、もしソ連が侵略してくれば、白旗と赤旗を掲げて降伏すれば、被害は多くないからよい、と反論した。
 いまからみれば、どちらが現実的かは議論を待たないだろうが、当時は「白旗と赤旗を」という森嶋説に賛同する新聞や学者、政治家も少なくはなかった。だが私は
第二次大戦直前のイギリスが消極平和主義を唱え、軍備を減らすことでナチス・ドイツの侵略を容易にした経緯や、軍備が戦争を招くのではなく、逆に平和を守ったスイスの実例の歴史を説く関氏の議論にうなずかされる部分が多かった。
 その関氏を中心に安全保障を研究し、討論する集まりに招かれるようになった。
 ワシントンで知遇を得た杏林大学教授の田久保忠衛氏、朝日新聞から青山学院大学の教授となった阪中友久氏、米国のクリスチャン・サイエンスモニター紙や ニューヨーク・タイムズの記者だった岡孝氏、政治評論家の屋山太郎氏、ジャーナリストの櫻井よしこ氏らがいつものメンバーだった。
 戦前、軍部に反対した自由主義者河合栄治郎氏を師とした関氏は西欧の民主社会主義への共鳴を示しながら、自国の価値観を守るための日本の防衛の必要性をも説いた。私がそれまでベトナムと米国で10年近く目前の現実をみながら大小の石を積むように断続して考えてきた日本の安全保障という課題を、論として 組み立てて示してくれるように感じたものだった。

 関氏にはイギリスのオックスフォード大学に留学中、イスラエルの有名な日本研究学者が「日本の知識人」という題の講演をした際に鋭い反論をしたというエピソードがあった。この学者が「日本の知識人は戦争に反対していた人もすぐ戦争支持に転向した」と批判的に述べたのに対し、関氏はさっと手を挙げ、「自分も戦争には反対したが、祖国がいったん興亡をかけた戦いに突入すれば、自国が敗れればよいと考える人間は知識人の名に値しない」と反論した。
 そのやりとりをたまたま聞いていた阪中氏は関氏に強い尊敬の念を抱くようになったという。私に関氏を最初に紹介してくれたのはその阪中氏や田久保氏だった。こういう先輩たちから学ぶところも大だった。

 そのころ日米同盟はロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘首相との間で強化されていった。ソ連はアジア地域ではSS20中距離核ミサイルの大配備に加えて戦略核爆撃機のバックファイアを新たに配備し、太平洋艦隊も大幅に増強していた。北方領土にも軍隊を送りこみ、基地を建設していた。
 米国も日本には原子力空母のエンタープライズやカールビンソンを改めて寄港させていた。新鋭の巡航ミサイルのトマホークを装備した戦艦ニュージャージーも来るようになった。日本国内での反対も勢いを減らしていた。日米同盟は明らかに新時代を迎えていた。(ワシントン駐在編集特別委員 古森義久