・北京と平壌の指導者に共通するメンタリティは、ほかならぬ、アラブ諸国での独裁レジームが崩壊の淵にあり、明日は我が身? という精神不安
・将軍様が工場見学と言っても北の技術力と労働の質から言って短時日の実現は不可能であり、中国はハイテク工場を見せつけて改革開放を促す努力をするものの、最初から北朝鮮が乗ってくる話とは思ってもいないだろう。
・中朝関係の友誼という演出は政治的ジェスチャーでしかない!
・北京と平壌の指導者に共通するメンタリティは、ほかならぬ、アラブ諸国での独裁レジームが崩壊の淵にあり、明日は我が身? という精神不安が脳裏を横切ったので、独裁の安定という、名状しがたい精神の安定をお互いが必要したからだ!
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間違いだらけだった金正日の中国訪問報道
宮崎正弘
2011.05.29 Sunday
正恩氏同行説から「同行せず」へ修正、揚州で江沢民と「会見」した、「しなかった」。最初から誤報が飛び交った。
韓国紙は5月20日、「政府高官」の発言として、金正恩が乗った列車が図門を通過したと見られると報道した。
日本の大手マスコミが、これに追随し、「正恩氏の訪中は中国指導部の要請によるもの。支援拡大と中朝関係、核問題への対応」を話し合うと見られる、などとみごとに的外れの「解説」を展開していた。
翌日の日本の新聞(5月21日)では、はやくも正恩訪中報道を大々的に「修正」しはじめ、息子ではなく「将軍様」の金正日自らが牡丹江のホテルに入ったことを確認した。
これは「中国の後ろ盾の確保が狙い」という分析がまかりとおる。ここまでの報道で以下のことが分かる。
日本の情報筋は吉林省、黒竜江省に関しての情報がほぼゼロであること。
当該地域は朝鮮族が多く居住する場所であり、最初に特別列車が通過した図門でさえ、韓国情報筋は「正恩が乗っているらしい」とする情報しか得ていなかった。つまり、韓国情報筋の手抜かりぶり!
その韓国情報筋に頼った日本のマスコミのふがいなさが如実となった。
この時点で、はやくも日本の解説ぶりが偏向している。おりからの日中間首脳会談へのゆさぶりが目的であり、「注目を集める時期を選んだ」などと酷い迷走ぶり。
ちなみに筆者はまさにこの日(5月21日)朝一番の飛行機で北京へ向かっていた。金訪中推測報道を読んではいたが、以後、26日まで中国に滞在中、いっさい報道はなかった。
さて図門から将軍様を乗せた列車が向かった方向から判断して図門―牡丹江―ハルビンと断定していた韓国系マスコミも、ハルビンを通過して長春に現れるや、また姿勢を一転させた。
昨年夏の訪中では、金正日は長春で、飛んできた胡錦涛と会談した。
▲揚州訪問はいかなるメッセージが込められていたのか?
しかし特別列車は21日にはやくも長春を離れ、「瀋陽を経由して北京へ向かった」と誤報された。
ところが金正日は首都の北京へは立ち寄らず、特別列車は天津へ向かい、されに天津から北京へ戻らずに、そのまま延々と南下しつづけて江蘇省の揚州へ入ったのだ。
この時点で筆者は中国にいることは述べた。しかし中国のマスコミは一切伝えていない。筆者は東京へ電話した際に、日本のマスコミが騒いでいることを知った。
北京から鄭州へ向かい、さらに西安へむかっていたが、車窓から異常事態を観測できたのは新幹線沿線の交差点、陸橋、橋梁部分で軍か警官の警戒ぶりである。
なにか、異常なことが起こっているな、と推測できた。
中国のテレビは温家宝の日本訪問を報道していたが、トップニュースは、米国をおそった竜巻、IMFのスキャンダル、リビア情勢だった。
長春では自動車工場を視察したことが確認された。
しかししばし、金正日の行方は不明となった。ただし産経の紙面では(5月22日朝刊)、「呉邦國と温家宝の不在」に留意しており、北はメンツにかけても指導者の大多数に会うだろうから、現時点での北京入りの可能性は薄いのではないか、と示唆していた。
22日に実際の金将軍は江蘇省揚州まで二千キロを一気に南下していたのだ。
この時点でまたまた書き飛ばし推測自由の身勝手新聞は韓国マスコミが引き受ける。揚州は江沢民の出身地、だから「江沢民と会見するに違いない」と大誤報を連打した。
共産党政治局常務委員経験者は、政治局の承認が無くては、いかなる私的交流でも外国要人とは会えないという厳密な共産党の内規を知らないらしい。つまり江沢民との揚州での会見はあり得ないか、考えにくいシナリオだったのである。
しかもこの時点(22日)で、温家宝首相はまだ日本にいる。記者団に「金の訪中目的は経済発展状況を理解してもらうためだ」と説明したそうな。
揚州といえば、日本人にとっては鑑真和尚。しかし将軍様は23日に、この街で工業団地とショッピングモールを見学しつつ長旅の疲れを癒した。
なぜか日本の新聞が揚州にこだわったことを、当時、金日成が江沢民と会談し、韓国との外交に反対したことに留意し、そうした意味でも中朝友好のジェスチャーという意義付けが大きいとした。
25日になってマスコミは将軍様の南京出発を確認する。揚州に二泊した様子で、24日に揚州から南京入りし、液晶パネル工場を見学した。その後、南京には宿泊しないで、そのまま特別列車は北上をつづけ、北京へ向かった。
胡錦涛ら中国首脳との会談は5月25日夜に人民大会堂で大々的に行われ、政治局七人が雁首を並べるという異例なもてなしようだった。
しかし胡錦涛、習近平、李克強らの顔が大きくテレビ画面に出たのは27日になってからである。
まだ韓国の新聞は人民大会堂での将軍様歓迎宴に同行したのは「第四夫人」と言われるキムオク(金玉)ではないかとして写真を掲げ推定した(確認は取れず)。
筆者は26日山西省の太源から新幹線で北京に入った。このとき、将軍様はハイテク工場を李克強の案内で視察中だったが、当方も知るよしもなく、夕方の新聞で「金正日が訪中しているという情報がある」という小さな見出しの記事を見つけた程度だった。
27日、将軍は北京を離れ、特別列車は遼寧省丹東から新義州へわたり、八日間という異例の長期の訪中をおえた。
三男の金正恩は、この地で帰国を出迎えた。
中国のテレビが大々的に金正日訪中の特番を流したのは27日夕方からだった。筆者ははじめて政治局常務委員九人のうち八人が集団であるいは個別で金将軍と会った映像をみた。また人民解放軍幹部との会見も中国のテレビニュースで大きくでていた。
▲金正日訪中の隠された意味とは何だったのか?
結局、この唐突にして長期の訪中は何が目的だったのか。
日本マスコミの推測記事曰く。「長旅に耐え、健康不安説を払拭」、「六カ国協議の推進」、「食糧支援強化を要請」、「核問題での対話継続」、「世襲を中国に容認させた」、「求心力低下に危機感」等々。
北京と平壌の指導者に共通するメンタリティはなにか。
チュニジアでエジプトで独裁者が倒れ、いまリビアの独裁レジームが崩壊の淵にある。イエーメン、シリアも同じである。
明日は我が身?という不安が脳裏を横切った。だから独裁の安定という、名状しがたい精神の安定をお互いが必要したからではないのか。
いたずらに将軍様が工場見学と言っても北の技術力と労働の質から言って短時日の実現は不可能であり、中国はハイテク工場を見せつけて改革開放を促す努力をするものの、最初から北朝鮮が乗ってくる話とは思ってもいないだろう。
中朝関係の友誼という演出は政治的ジェスチャーでしかないのである。