・「直ちに影響はない」ということは、長期的には影響があるとも、無いとも言っていない。 無責任用語だ!

原子力専門家諸氏が解説し、談話を発表してくださるのはありがたい。しかし、その見解がまことにバラバラである。
・はなはだしきは数値がしょっちゅう変わることである。たとえば水道水にふくまれる放射能の基準値は3月17日まではヨウ素10ベクレル、セシウム10ベクレルとされていたのが、一夜明けて翌日からは、ヨウ素300ベクレル、セシウム200ベクレルに設定された。
放射線事業従事者の年間許容限度は、50ミリシーベルトとされていたのが、こんどの事故が深刻化したらいきなり5倍の250ミリシーベルトになった。
・これらの数値、おおむね「暫定」という条件がついているのもクセ者である。  先生の学説や解釈がトンチンカンで、いっこうに統一見解がみえてこないからである。
・「直ちに影響はない」ということは、長期的には影響があるとも、無いとも言っていない。 無責任用語だ!

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
 放射能、何が危険で何が安全?
社会学者・加藤秀俊
2011.7.4 03:09

 もうこれで4カ月近くになるから、1学期がおわった、ということになるのだろう。この学期中、われわれは原子力放射能についての大学院レベルの集中講義を受けた。いうまでもなく、ラジオ、テレビ、新聞雑誌、ことごとくが総力をあげて、われら国民の啓蒙(けいもう)に全力を傾注してくださったからである。

原子力「集中講義」受けた国民≫:
 講師陣も豪華で、素粒子論の基礎理論から原子炉設計学、放射能測定技術から呼吸器、消化器の病理学者まで、全国から一流の学者がつぎつぎにテレビ画面にあらわれて、学理、学説を説いた。   その結果、われら大衆も、さいしょはおずおずと、そして、いまはとっくに承知といった口調で「ベクレル」だの「シーベルト」だのということばを使うようになった。    日本国の民度の向上、ご同慶の至りである。
 だが「ベント」やら「トレンチ」やら、カタカナだらけの専門用語を口にしながら、はたして、われわれがそのすべてをちゃんと理解してものをいっているのか、といえば、答えは否である。じつのところ、なにもわかってはいないのである。わかっていないどころか、ますますわからなくなっているのである。

 たしかに、専門家諸氏が解説し、談話を発表してくださるのはありがたい。しかし、その見解がまことにバラバラである。1日にタバコを30本吸う人間はラジウムポロニウムなど年間13ないし60ミリシーベルトを被曝(ひばく)し、副流煙にも1・2ミリシーベルトが含まれる、だから、20ミリシーベルトくらい、たいしたことはない、という説があるかと思うと0・5ミリシーベルトでも甲状腺ガンにかかる可能性があるから、線量計で検査して合格しないホウレンソウは廃棄せよ、という先生がいる。

≪聴くほどに分からなくなる≫:
 健康診断で胃のエックス線検査をすれば4ミリシーベルト、CT検査になると7ミリシーベルトだから、やたらに放射線検査をするな、という論者がいる半面、いや、そのくらいならだいじょうぶ、それよりも病気の早期発見のほうが重要だ、という医師もいる。
 天気予報は、明日は気温上昇につき半袖でいい、という。それだけ紫外線に対して無防備でよろしい、ということだ。しかし、波長こそ違え、紫外線もまた放射線の仲間である。半袖ならそれだけ皮膚ガンにかかる確率が高いということである。予報士はそのことをいわずに、牛乳の、レタスの、そしてコウナゴの放射線に警戒せよと力説する。

 念のためいっておくが、このごろメディアがいう「シーベルト」の多くは「マイクロ」が単位である。「ミリ」の千分の一である。ここらもまぎらわしい。またガンになる可能性が0・5倍増えるということは、100が150になるということではない。あれは正常で0・1%のものが0・15%になる可能性があるというだけである。もとの絶対数を棚上げにして何倍、何十倍というのは、ときとして詐術にみえる。

 はなはだしきは数値がしょっちゅう変わることである。たとえば水道水にふくまれる放射能の基準値は3月17日まではヨウ素10ベクレル、セシウム10ベクレルとされていたのが、一夜明けて翌日からは、ヨウ素300ベクレル、セシウム200ベクレルに設定された。シーベルトのほうだって、融通無碍(むげ)。放射線事業従事者の年間許容限度は、50ミリシーベルトとされていたのが、こんどの事故が深刻化したらいきなり5倍の250ミリシーベルトになった。それをこえても当局は安心せよ、異常は無いという。

≪泣き、怒る学者で支離滅裂≫:
 これらの数値、おおむね「暫定」という条件がついているのもクセ者である。いつ、だれが、どういう理由でつけたのか知らないが「暫定」というのは「さしあたり」ということである。「その場かぎり」ということである。あんまり信用しないほうがいい。

 以上、わたしがしるしたこと、マチガイも多かろう。多いはずである。なにしろ、これだけ矢継ぎ早にいろんなことをいろんな先生から学習し、それらの先生の学説や解釈がトンチンカンで、いっこうに統一見解がみえてこないからである。それどころか、なかには意見がいれられなかったといって泣き出す学者がいたり、みずからの不明瞭な言語が通じないといって怒る教授もいたりする。こんな支離滅裂の講義をきいて、わかるはずがあろうか。

 そんなめんどうで不可解なことがくりかえされて、それでどうなるのかといえば「直ちに影響はない」という。だいじょうぶだ、という。なにがどう「だいじょうぶ」なのかいっている本人にもわかっていないようである。将来どうなるのか、と問いただすと前例のないことだからわからないという。それなら、さいしょから説をなすことじたいが無意味である。

 以上、この1学期、原子力の集中講義を受講しての劣等生の学期末リポートである。いくら押し売りされても、来学期は受講しない。わからないものはわからないからである。(かとう ひでとし)