・シベリア収容所ではノルマが達成できないと地下室に閉じこめられた。次々と戦友が亡くなるが、どうにもできない!

・「シベリア抑留を語れる者は減ってきたが、拉致された憤りは消えない。日本人が忘れてはいけない過去」   風化させてはならない!
・ 昭和20(1945)年の終戦満州・新京で迎え、武装解除。「ダモイ(帰国)」というソ連兵にせかされ、床が破れた貨車に乗せられ、海が見えたとき、「日本海だ」と声を上げる。しかし、そこはバイカル湖だった。
・シベリア収容所ではノルマが達成できないと地下室に閉じこめられた。次々と戦友が亡くなるが、どうにもできない!
・座間三郎さん(86)=埼玉県越谷市=も何度もダモイにだまされた。ソ連はダモイという共通目標を与え、反乱や逃亡を防いでいた。3度変わったが、到着先はいつも収容所。雪を掘りモミの木を伐採する作業が続く。
・生還した経験者もすでに約1割しか生存していない!



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
シベリア抑留を舞台に、過酷な生活・理不尽な労働…記憶を次代へ
2011.7.30 21:49
ロシア・クラスノヤルスクで「シベリアに桜咲くとき」=2010年9月(日露SAKURAプロジェクト提供)が上演された。

 終戦後、60万人もの日本人が不法に移送されたシベリア抑留を描く舞台「シベリアに桜咲くとき」が8月3日から東京・両国で始まる。ロシア人作家の戯曲を日露の協力で公演が実現した。6万人が現地で犠牲になり、帰還した経験者の高齢化も進み、風化を懸念する声が高まっている。
 シベリアの作家ネリ・マトハノワさん(75)は図書館で抑留体験を描いた画文集を見た瞬間、市電を建設する抑留者に罪悪感を覚えた幼いころの光景がよみがえった。これをきっかけに故郷を思う抑留者と現地住民の触れ合いを描いた群像劇を書き上げた。主催の日露SAKURAプロジェクトは「抑留経験者だけでなく、家族が抑留を経験した人や若い人にも見てほしい」と話している。
 「抑留を語れる者は減ってきたが、拉致された憤りは消えない。日本人が忘れてはいけない過去」。抑留経験について富田美徳(よしのり)さん(87)=千葉県茂原市=はこう語る。
 昭和20(1945)年の終戦満州・新京で迎え、武装解除。「ダモイ(帰国)」というソ連兵にせかされ、床が破れた貨車に乗せられ、海が見えたとき、「日本海だ」と声を上げる。しかし、そこはバイカル湖だった。収容所ではノルマが達成できないと地下室に閉じこめられた。次々と戦友が亡くなるが、どうにもできない。
「だれもが自分が生き延びることしかなかった。どうにかして明日を迎え、日本に帰ることだけだった」
 座間三郎さん(86)=埼玉県越谷市=も何度もダモイにだまされた。ソ連はダモイという共通目標を与え、反乱や逃亡を防いでいた。3度変わったが、到着先はいつも収容所。雪を掘りモミの木を伐採する作業が続く。戦友が朝、冷たくなっていても凍った地では埋葬もできず遺体は積み重ねられたままだった。
 富田さんは23年6月、座間さんは22年11月、ナホトカ港から帰国した。船に乗り、看護婦から「ご苦労さまでした」と声を掛けられ、富田さんは初めて泣いた。それでも座間さんは半信半疑で赤飯もポケットに入れたままだった。草ぶきの家屋が見え、初めてダモイを確信した。
 生還した経験者もすでに約1割しか生存していないとみられる。「抑留の話をすると昔のことでしょうという人もいる。でもなぜ、そんな経験をしなければならなかったのか」
 座間さんの目からは涙が流れる。思い出すのは亡くなった戦友、悲惨な収容所生活、理不尽な抑留、喜びの生還。「でもどれも戦友が、座間もういいよともいうんですよ」(将口泰浩)