・温室育ちが権力を握ったような「3代目」に農村が救えるとは、とても思えない。

・重松は大正14年平安南道の江東で金融組合理事となった。平壌の北東40キロばかりにある現北朝鮮の農村だった。
・重松は寝食を忘れ村民たちの指導に当たった。農家がみな同じ鶏を飼い、卵質をそろえて大量販売、ためた代金でこんどは牛や豚を買う「卵から牛へ」運動を起こす。  重松自身、販売の先頭に立つが、おかげで豊かな農家が急激に増える。 子供が上級の学校へ進み、医者になった家もあった。
・重松だけではなかった。 何十と設立された金融組合の日本人理事たちはそれぞれに、朝鮮の農村振興のため知恵を絞り、汗を流した。
・今の北朝鮮では、金正日総書記の軍事優先の恐怖政治や極端な計画経済が、農民たちの「やる気」を失わせていることは容易に想像できる。
・重松らが残してきた「勤勉」だとか「愛情」といった徳目に注目すれば、もう少しは違った政策をとれた。
・温室育ちが権力を握ったような「3代目」に農村が救えるとは、とても思えない。


〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
聖者が培い将軍様が壊す
論説委員・皿木喜久 2011.12.24 02:57
 昨年、近現代史家、田中秀雄氏の『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』という本が話題となった。  戦前の日本は朝鮮や中国で悪いことばかりしていたと信じて疑わない歴史観の持ち主には、タイトルだけでも十分刺激的だったからだ。
 「聖者」と呼ばれた日本人は、愛媛県出身の重松●郅修(まさなお)である。
 大正4(1915)年、日本統治下の韓国(朝鮮)にあった東洋協会専門学校(現拓殖大学京城分校を卒業、2年間の官吏生活を経て朝鮮金融組合に入る。
 併合前から韓国の財務顧問をつとめた目賀田種太郎によって設立された組合である。  日本の頼母子(たのもし)講のようにお互いが金を融資し合い、農村の振興を目指すものだった。  各地方の組合に運営資金として政府から当時の金で1万円が融資され、日本人の理事1人が派遣された。
 『朝鮮で…』によれば、重松は平安南道・陽徳金融組合理事となる。  大正8年、独立要求運動の余波で足に銃弾を受けて退任、6年後に同じ平安南道の江東で理事となった。  平壌の北東40キロばかりにある現北朝鮮の農村だった。
 文字通り寝食を忘れ村民たちの指導に当たった。農家がみな同じ鶏を飼い、卵質をそろえて大量販売、ためた代金でこんどは牛や豚を買う「卵から牛へ」運動を起こす。  重松自身、販売の先頭に立つが、おかげで豊かな農家が急激に増える。 子供が上級の学校へ進み、医者になった家もあったという。
 車の通れる道がなく、出荷がままならない地区では、農作業前にみんなで工事をするよう呼びかけ、立派な道路を造った。
 「日本人の言うことを聞けるか」と抵抗していた村民たちも、やがて重松を「聖者」のように慕うようになった。 昭和11年には江東に頌徳(しょうとく)碑まで作られている。
 日本の敗戦で重松は朝鮮の警察に逮捕された。ところが取り調べにあたった検事が、かつてその指導を受けた江東の少年だったので、すぐに釈放されたという。
 重松だけではなかった。 何十と設立された金融組合の日本人理事たちはそれぞれに、朝鮮の農村振興のため知恵を絞り、汗を流した。  そのことは十分に記憶されるべきだ。
 敗戦で日本人が去った後の朝鮮、とりわけ北朝鮮の農村の状況はベールに包まれたままである。  重松が心血を注いで豊かにした江東の「今」も全くうかがい知れない。  だが、伝えられる大量の飢餓や食糧不足などを考えれば、農村の多くが当時よりも疲弊し、荒廃していることは間違いあるまい。
 元凶が金日成金正日父子による2代の独裁にあることもまた間違いない。特に自らを「将軍様」と呼ばせた金正日総書記の軍事優先の恐怖政治や極端な計画経済が、農民たちの「やる気」を失わせていることは容易に想像できる。
 せめて、重松らが残してきた「勤勉」だとか「愛情」といった徳目に注目すれば、もう少しは違った政策をとれた。豊かさあふれる農村にできたのではないかと思う。
 だが権力闘争にしか関心はなく、拉致事件に見えるように日本人への嫌悪感が露骨だった総書記だ。そんな日本人と朝鮮農村との物語など、歯牙にもかけなかったのだろう。 ましてや温室育ちが権力を握ったような「3代目」に農村が救えるとは、とても思えない。

郅●=高の右に昇