・ユートピアンが多く、そのとき良かれ、且つ、おままごと遊びの目立つ民主党の政権に国家根幹の問題にかかわる「国家意志」の表明ができるか!

・「(冷)戦時」から「平時」への移行は勝者の寛大さに委ねられた。「成り行きの20年」の結果が今日の「難所」だ。
・既成秩序派と新興勢力の間の「新しい国際秩序」をめぐる駆け引きは熾烈、複雑を極めるであろう!
・「失われた20年」とは財政経済分野だけに限らない。「国家意志が失われた20年」も問題だ!
・主権、領土保全、防衛安全保障、国の進路など数値化できない国家根幹の問題にかかわる「国家意志」の表明となると、日本の旗色は極端に悪い。
・国際的な権力政治(パワー・ポリティクス)ゲームでより重要なのは、むしろ「国家意志」だ!
ユートピアンが多く、そのとき良かれ、且つ、おままごと遊びの目立つ民主党の政権に国家根幹の問題にかかわる「国家意志」の表明ができるか!


〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
日本再生の年頭に 
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
2012.1.3 03:18 [正論]
■「国家意志」が求められる時代
 英国の歴史家E・H・カーの『危機の二十年』初版は1939年9月に世に出た。  まさにヒトラー・ドイツがポーランドに襲いかかり、第二次大戦が始まった瞬間だった。  カーはそれに先立つ約20年、つまり第一次大戦ヴェルサイユ体制下の歳月を「危機(クライシス)」の時代と一括した。  その前半が国際連盟に象徴されるリアリズム欠如のユートピアニズム、後半がその幻想の瓦解期だったからだ。
≪『危機の二十年』が語るもの≫:
 ならば、後世のわれわれは39年9月以降の第二次大戦期を「破局(カタストロフィ)」の時代と呼びたくなる。  だが、カーは初版最終章を「新しい国際秩序への展望」と題し、「破局」とは捉えなかった。
 カーの「新しい国際秩序」は、ヴェルサイユ秩序下の三大「現状不満国」−敗戦大国ドイツ、新興大国日本、革命大国ソ連−の欲求とりわけ領土的欲求への「宥和」下に構築されるべきであった。  日本の満州国建設、ヒトラーオーストリアチェコスロヴァキア併合を許容する態度には、今日では誰もが仰天する。   だが、第二次大戦後の『危機の二十年』再刊の際、カーはさすがにヒトラーなる個人的要素の描写は若干修正したが、著書の論旨は変えなかった。  81年の新刷版でも論旨不変だった。
 左翼リアリズムに立つ同書の邦訳は52年に出版され、名著と呼ばれた。が、論旨が論旨なだけに、「一億総懺悔」風潮下の日本では長年、同書は実は敬遠された。  今回、その問題本に触れるのは、個別事件や個人要素の記述は別にして、往年のカーの大きな問題設定ぶりに強く魅せられるからだ。
 一体、往時のカーは三大「現状不満国」のなにを、どこを重視したのか。 私に言わせると、質量の大きい「国家意志」の表明ぶりを、だ。  その表明者は独裁者個人(ドイツ)、独裁政党(ソ連)、中核不明確な国家主義体(日本)と三者三様だ。    だが、カーはいずれの「現状変更」欲求をも非難せず、それを容れての「新しい国際秩序」が必要だとしたのだった。
≪「成り行きの20年」後の難所≫:
 さて、冷戦終結から20年。  それを「危機の20年」と呼ぶ論者はいない。  だが、現時点を国際政治の一大「難所」だとする声は巷に満ちている。  カーが存命なら、再び「新しい国際秩序への展望」を語るだろう。私の診断はこうだ。
 第一次大戦とは違い冷戦終結講和条約はなく、「(冷)戦時」から「平時」への移行は勝者の寛大さに委ねられた。  爾来、米国の「新世界秩序」論や「一極支配」体制などの着想はあってもいずれも短命で、通観すると、世界は成り行き任せだった。 「成り行きの20年」の結果が今日の「難所」だ。「危機」の後に「破局」がきた往時とは違い、「難所」の次に「破局」はないだろう。  だが、既成秩序派と新興勢力の間の「新しい国際秩序」をめぐる駆け引きは熾烈、複雑を極めよう。特にその複雑さが重要である。
 その複雑さは、新興大国中の両雄、中国とインドの関係に明瞭である。 両国の領土紛争の残り火はまだくすぶっている。  両国の急速な経済発展で近年、海洋権益をめぐる競合も目立つ。  政治システムは違うし、国家としての価値観体系にも大差がある。  無論、地球環境問題で中印はともに先進国グループに対峙するといった共通姿勢も見せるが、既成秩序派との全般的関係で見ると、中印は大きく異なる。  「危機の20年」末期の既存秩序派VS現状変更志向派なる対立図式は今日妥当しない。

≪日本の旗色は極端に悪い≫:
 新興勢力間の相互牽制ゆえに一部新興勢力が既存秩序派と組み、他の一部新興勢力に対抗するという新しい図式、つまり三つ巴状況下で次なる「新しい国際秩序」状況が形成されてゆく。  各勢力間の「切磋琢磨」は激しく、ゲーム参加各国の「国家意志」が否応なしに厳しく問われるであろう。
 かつて身の丈以上の「国家意志」を表明して大火傷した日本は敗戦後、「国家意志」の表明を抑制する処世術に徹してきた。  それはそれなりの成功を収め、日本は経済大国の地位を得た。 が、抑制が習い性となり、これまでの「成り行きの20年」間、安倍晋三政権の1年を例外として、日本の「国家意志」はひどく衰弱した。  よく語られる「失われた20年」とは財政経済分野だけに限らない。私見では、「国家意志が失われた20年」こそが問題なのだ。
 数値化できる諸分野で日本の国力は世界有数である。 だが、主権、領土保全、防衛安全保障、国の進路など数値化できない国家根幹の問題にかかわる「国家意志」の表明となると、日本の旗色は極端に悪い。次なる「新しい国際秩序」をめぐる国際的な権力政治(パワー・ポリティクス)ゲームでより重要なのは、むしろ「国家意志」なのに。
 このゲームにたじろいではならない。等身大の「国家意志」をもって、立ち向かわなければならない。 ただ、ユートピアンの多い民主党の政権にそれができるか。(させ まさもり)