・同じ太子党、彼より4歳年下の習近平氏が、偶然の成り行きから次の党総書記になると決まってしまった!

・薄氏にとって気がかりだったのは、その最年少の政治局委員である汪氏が、胡錦濤党総書記の秘蔵っ子だったことだ!
・薄氏の子分だった人物 王立軍が公安局長のポストを外された直後、成都の米総領事館に逃げ込んだと聞いて人々が思い浮かべたのは、林彪事件だった。
・同じ太子党、彼より4歳年下の習近平氏が、偶然の成り行きから次の党総書記になると決まってしまった!
・お互いに、薄氏に対する強い競争心が習氏の胸中には従前からあった!


〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
「絶妙な幕切れ」だった薄氏失脚
中国現代史研究家・鳥居民 2012.3.26 03:09 [正論]
 薄煕来氏が唐突に失脚した。
 薄氏は重慶市共産党委員会書記だった。「地方諸侯」の1人だったのだが、この数年、彼ほど注目された人物はいなかった。  日本でいうなら、大阪市長橋下徹氏といった存在だった。  この秋の党大会で、もしかして薄氏が党総書記になるのではないか、さもなければ、国家主席は総書記が兼任するのがしきたりとはいえ、その国家主席に薄氏が就任するのではないかなどと取り沙汰され、大衆に訴える政策を打ち出した彼の「重慶モデル」が論議されもした。
習近平氏への競争心燃やす≫:
 薄煕来氏は、第一世代中国共産党最高幹部の子弟であること、いわゆる太子党であることが最近までの彼の力の大きな源泉だった。   そして、同じ太子党、彼より4歳年下の習近平氏が、偶然の成り行きから次の党総書記になると決まってしまい、習氏に対する強い競争心が薄氏の胸中にはあった。
 薄氏は1980年代から90年代を通じ2004年まで、東北の行政官だった。  大連市党委書記、遼寧省党委副書記までになった。   続いて、07年まで、国務院の商務相だった。   世界景気は上々、貿易は順調に拡大を続けていたときであったから、幸せな大臣だった。
 そして、重慶への赴任だ。  彼が試みた、革命歌を市民に歌わせる「唱紅」はここでは語らず、「打黒」を取り上げる。    彼は遼寧省時代には、前からいた連中の“嫁いびり”に悩まされた。   重慶でトップに立った彼は鉄拳政策を取ろうとした。   重慶の公安局を13年にわたり支配していた文強という人物を追い出し、遼寧省時代の部下の王立軍という警察官僚を重慶に呼び、公安局の副局長にした。   揚子江有数の港町である重慶は役所と企業と暴力団が癒着していた。
≪大衆の喝采と大物の怨嗟浴び≫:
 薄氏は、「黒」退治を大義名分にして思いのままに振る舞った。  密告を奨励し、たちまちのうちに5000人を捕らえた。  10年には、公安局の前のボスだった文強を死刑にした。  公安、検察、法院が話し合っての荒っぽい仕打ちだった。  そして、「黒」との繋(つな)がりを糾弾し、多くの私企業を市営に変えた。   氏がやったことは、大衆からは喝采を浴びたが、恨みを買うことになって批判もされた。
 広東省党委書記の汪洋氏の怒りも招いた。   薄氏の前任の重慶市党委書記だった汪氏にしてみれば、自分の無能と無策、いかがわしさを指摘されたも、同然だったからだ。    そして、薄氏にとって気がかりだったのは、その最年少の政治局委員である汪氏が、胡錦濤党総書記の秘蔵っ子だったことだ。
 重慶にかかわりがある政治家には、このほか、中央政治局の2人の常務委員、中央規律検査委員会書記の賀国強氏と中央政法委員会書記の周永康氏がいた。  周氏は2000年から02年まで、四川省党委書記、賀氏はほぼ同じ時期に重慶市党委書記だった。   周氏は大慶油田をはじめとして石油畑を歩いてきた石油業界の大御所であり、賀氏は石油化学工業界が自分の領域である。   その2人が在任中に四川省石油化学工場の建設にどのように関与したのかは、薄氏の右腕が徹底的に調べ上げたはずだった。   現在、枢要なポストに座る2人の常務委員の弱みを握るのは、この上ない武器となるからだ。
 周氏が薄氏に大きく肩入れしたことはよく知られている。  賀氏は対応をなぜか全く変えた。   薄氏とその右腕との仲を裂こうとした。   昨年10月、中央規律検査委員会書記の賀氏は薄氏に向かい、王立軍副市長兼公安局長が遼寧省錦州市の公安局長だったときの職権乱用の事実を突き付け、王氏の処分を迫り、12月に2度目、この1月にも重ねて詰問したのだという。
林彪事件にも似た腹心の逃亡≫:
 ところで、薄氏の子分だった人物が公安局長のポストを外された直後、成都の米総領事館に逃げ込んだと聞いて人々が思い浮かべたのは、林彪事件だった。  1971年、この毛沢東の戦友はジェット機で中国を脱出し、モンゴルの草原に不時着陸しようとして失敗した。  林家全員が焼死したと知り、北京の高官の1人が思わず漏らしたのは「絶妙な幕切れだ」という科白(せりふ)だった。   薄氏の腹心だった男が所もあろうに、米総領事館に駆け込んだと知って、同じ言葉を吐いた党幹部がいたに違いない。
 前に戻る。   薄氏がやったことは「唱紅打黒」だけではなかった。   中央政治局常務委員会のナンバー2で江沢民派の重鎮である呉邦国氏は、昨年4月に重慶を訪れた際に、賃貸の公共住宅の建設を「一大徳政」と絶賛し、重慶の戸籍制度の改革を褒めた。   市内に住んでいる全ての出稼ぎ農民に都市戸籍を与える計画である。   医療を受けることができ、子供は公立学校に通うことができ、公共住宅に入居できるようになる。   だが、薄氏の見事に過ぎるプランは、呉邦国氏が「戦略的な探求」と評した通り取りかかっただけに終わった。
 さて、この中国最大の宿題の解決は、薄煕来氏が挫折せずに中央入りしてこそのことだったのであろうか。    それとも、薄氏を放逐した人々こそがやり遂げるのか。(とりい たみ)