・「聴きとりでつづる新聞史」に当時の事実を垣間見る内容があった!

・「聴きとりでつづる新聞史」に当時の事実を垣間見る内容があった!
・本当に仕事をしている中堅の人、責任のある人を、「新聞会」にきてもらって話を聞く。 聞くものは、われわれ統制会幹部と新聞各社の編集局長です。
・聞いてみると、油はこうだ、地下工場はこうだ、飛行機はこうだという。  聞いておってふるえたですよ。何一つ希望のないメチャメチャの状態だ!
・曾祖父が昭和12年に応召し、48歳前後だった13年に前年落城した南京城前の塹壕で撮ったもの。

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
極私的・久しぶりに名を聞いた曾祖父の証言記録
阿比留瑠比    2012.04.26 Thursday
 本日はごく私的なことを記そうと思うので、関心のない方は飛ばあしてください。私は先週の金曜日に、たまたま所用があって故郷の福岡に出張し、夜にはある寿司店にいました。  すると、その店に居合わせた年配の女性2人が、30年以上前に亡くなった私の曾祖父を知っていると言い、こう大きな声で呼んだのでした。  「浦ちゅーりん(忠倫)!」
 別のグループで食事をされていたので、どういうかかわりがあったのかを聞くことはできませんでしたが、150万都市とはいえ、福岡は狭いなあ、縁とは面白いものだなあと感じた次第でした。  この曾祖父についてはずっと以前、2006年12月29日のエントリ「大衆紙夕刊フクニチ』誕生記と個人的な思い出」(http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/93946/)でも触れています。

で、帰宅後しばし、「懐かしいなあ」と今はもうない曾祖父の家の書棚を物色し、戦記モノを好んで借りて読んだ日々を思いだしていました。  そしてふと思い立ち、「昔の人だからヒットしないだろう」と思いつつインターネットで曾祖父の名前を検索してみたところ、わずかですが出てきました。
 しかも、日本新聞協会から出版された別冊新聞研究6号「聴きとりでつづる新聞史」の中で、曾祖父がインタビューに答えていることが分かりました。   この「聴きとりでつづる~」は142人の新聞関係者の証言をもとに、新聞史を振り返るというもので、私は産経新聞に入ってもう23年目なのに、こんなところに曾祖父が登場しているとは迂闊にも初めて知りました。
 もっとも、インタビューは1970年に行われたもので、当時4歳だった私が知っている方がおかしいとも言えますが。ともあれ、早速新聞協会に行ってこの記事を閲覧してきたというわけです。そこには陸軍の主計大尉から福岡日日新聞(西日本新聞の前身の一つ)に入り、新聞統制会の常務理事を務めた後に50代半ばでまた応召となり、後に夕刊フクニチを創立した曾祖父のいろいろな証言が収められていました。
 まあ、今回はあくまで私的エントリとは言っても、あまり個人的なことばかり書いても仕方がないので、そのときどきの時代を感じるエピソードをいくつか抜き書きしようと思います。  曾祖父が緒方竹虎と親しかったという話も、今回の帰省時に母から初めて聞きました。

 《私は軍隊で、熊本の連隊に二年おり近衛師団付きになって、それからシベリアに行ってまた東京の第一連隊に帰ってきた。
 一連隊に行って驚いたことは、若い将校でよく本を読んでいるものが多かったことですね。  あのころで、マルクス理論の本などを読んでいる将校がかなりおりましたよ。  わかったか、わからないかは別ですが……。  田舎の連隊ではほこりにまみれて、本など読む兵隊は少なかったころですが、さすがに東京の兵隊は、よく勉強してましたね。  これらが一連隊、三連隊を中心に、二・二六事件をおこす原動力の一つだったのではないでしょうか。   二・二六事件青年将校の思想などは、一種の国家社会主義に近い線を持っていたと思うんです》
 《実は小磯内閣になったとき、どうも戦局がおかしい。  たとえば、当時、一週間にいっぺんずつ、内閣書記官長と情報局の副総裁と、われわれとが、帝国ホテルで会食することになっていた。  情報交換のために……。ちょうどそのときレイテ沖海戦があって、軍が勝ったというのですよ。  本当にそう思っていたらしい。  後できくと負けているんですね。  実に甘い見方をしている。

 そんなふうで、一向に戦局の真相が知らされていない。  政府の相当の要人でも、真相をしらない。  だからわれわれ新聞人にだけでも、もっと真相を知らせてくれと、小磯内閣に申し込んだ。  すると「よかろう」というので、各部門のエキスパート、たとえば、石油関係では何々少将、工業関係では、だれ、と、本当に仕事をしている中堅の人、責任のある人を、「新聞会」にきてもらって話を聞く。
 聞くものは、われわれ統制会幹部と新聞各社の編集局長です。責任を持つために、ここにはいる時はみな署名している。  その他はだれも入れない。そして本当の戦況を何でもかんでも、話してもらうことになったんです。    聞いてみると、油はこうだ、地下工場はこうだ、飛行機はこうだという。  聞いておってふるえたですよ。何一つ希望のないメチャメチャの状態だ》

 《私は「新聞会」が解散になって、一応博多へかえりました。 そのころは緒方竹虎さんが情報局総裁でした。 これは伊藤述史・天羽英二・下村海南についで四代目ですが。  それで緒方さんが「『西日本新聞』の専務でお帰りなさい」というので、博多へ帰りました。
 ところが「新聞公社」からは専務理事に帰れという電報がくる。 「もういっぺん帰ってこい」と。 どうするか決めないうちに、召集がきました。 「統制会」におるときは、召集猶予になっていたんです。 ところが「統制会」が解散になると、四月の総動員で、私は兵隊に引っ張られました。 そして薩摩の果てで、終戦まで兵隊にいっておった。》

……当時の新聞と政府・軍とのかかわり方がうかがえて興味深いかな、と思いました。 いま、先細りと淘汰・再編が必然視されている新聞業界はこの先、どうなっていくのかということと、併せて考えさせられました。

 おぼろげな記憶であやふやですが、曾祖父からシベリア出兵時にバイカル湖で船が沈められ、一晩泳いで死ぬかと思ったという話を聞いた記憶があります。いや、あれは祖母(曾祖父の長女)からだったかな。  下の写真は、曾祖父が昭和12年に応召し、48歳前後だった13年に前年落城した南京城前の塹壕で撮ったものだそうです。今も存命ならば(そりゃ120歳まで生きろというのは無理ですが)、当時の南京の本当の状況などを直接聞けたのにと残念です。