・過去の二つのサイクルから学ぶことができれば、日本は非西欧世界における成熟した先進民主主義国として、持続的な発展が可能になるに違いない。

・三条 健です。 ポイントは以下。
・成功するとは限らなかったが、日本は非西欧世界で最初に近代化へと離陸する。  幕末維新の日本は、欧米列強による植民地化の危機=国家的独立の危機の中にあったからだ!  危機的な状況の中から、日本は近代化の歴史のサイクルを描き始める。
・敗戦後、今度は第二の歴史のサイクルが始まる。敗戦国民のがむしゃらな努力が駆動力となって、第一のサイクルにも増して、急速な国家の再建と経済大国化が実現する。 その経済大国、日本も衰退に向かう。
・過去の二つのサイクルから学ぶことができれば、日本は非西欧世界における成熟した先進民主主義国として、持続的な発展が可能になるに違いない。
・機能不全に陥っている政治を立て直す。 経済を回復軌道に乗せる。 そのような新しい歴史のサイクルを描くためには、歴史観の対立を相対化し、歴史から学ぶことが必要である。


〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
戦前と戦後の連続性を重視する
学習院大学教授・井上寿一    2012.5.17 03:09 [正論]
 歴史観の対立が続いている。河村たかし名古屋市長の「南京発言」のような例は、今に始まったことではない。
≪「親米保守」VS.「反米保守」≫:
 これまでと違うところがあるとすれば、それは「3・11」後の日本社会に対する影響である。  東日本大震災直後の譲り合い・助け合いの精神は失われ、一年を経て、社会の分裂の度が深刻になっている。  歴史観の対立が分裂を加速するのではないか。  そのことを危惧する。
 どうすべきか。歴史観の問題に引きつけて考えてみたい。  あらかじめお断りしておくと、以下に述べるのは少数者の意見である。  大方の賛同を得られるとは楽観していない。  それでも、日本社会の分裂を修復する手がかりになることを願いながら記す。
 歴史観の対立が続く原因は国際政治の構造変動である。  20年以上前に米ソ冷戦が終結した。   ところが、東アジアには複数の分断国家が存在している。
 米ソ冷戦の終結と東アジアにおける冷戦構造の残存は、日本国内に複雑な影を落とす。  米ソ冷戦に対応する「親米保守」路線の下で抑制されていた、「反米保守」路線が台頭する。  他方で、東アジアの国際冷戦に対応する国内冷戦は続く。

親米保守」対「反米保守」の対立と国内冷戦の継続は、歴史観の対立の固定化を招く。 国民の大半の歴史観は、これら二つのうちのどちらかだろう。
≪戦後の民主主義の源流戦前に≫:
 対する少数者の歴史観は、戦前も戦後も肯定する。  この立場は、戦前の漸進的な民主化と「戦後民主主義」を結びつける。  戦後の平和は失われた可能性(=戦前における平和的発展の可能性)の実現である。  要するに、戦前と戦後の連続を重視する少数者の歴史観は、戦後の「平和と民主主義」の伝統を戦前に再発見する。
 別の言い方をすれば、少数者の歴史観は、国民一人ひとりが責任主体となって歴史の形成に参画していると考える。
 帝国憲法の下であっても、近代の日本は男子普通選挙制度を導入し政党内閣が成立する。 日清・日露戦争第一次世界大戦を経て大国となった日本は、平和的発展へと舵(かじ)を切る。  それでも、戦争から国家的な破局へ至ったのは、陰謀に操られたというよりも、国民の選択の結果だった。
 同様に戦後、占領下であっても、国民は「平和と民主主義」を求めた。   日本国憲法は、占領権力による「押し付け憲法」であるに違いない。  しかし、敗戦の現実を直視しながら「平和と民主主義」を急ぐ国民は、そのことを百も承知で受け入れる。  それは国民の意思だった。
 戦前と戦後の歴史を連続させる。 そのうえで、日本の歴史を百年単位で捉えて解釈すれば、歴史観の対立は相対化できるのではないか。
 日本は非西欧世界で最初に近代化へと離陸する。  成功するとは限らなかった。  幕末維新の日本は、欧米列強による植民地化の危機=国家的独立の危機の中にあったからである。  危機的な状況の中から、日本は近代化の歴史のサイクルを描き始める。
 急角度の上昇は同時代人の悪戦苦闘のおかげである。  他方で頂点を極めるのが早かった分、下降も急速だった。  百年も満たずに第一の歴史のサイクルが終わる。
 敗戦後、今度は第二の歴史のサイクルが始まる。敗戦国民のがむしゃらな努力が駆動力となって、第一のサイクルにも増して、急速な国家の再建と経済大国化が実現する。その経済大国、日本も衰退に向かう。
歴史観の対立を相対化すれば≫:
 そして今、日本は三度、新たな歴史のサイクルの出発点に立つ。 前途を悲観する材料には事欠かない。  それでも過去の二つのサイクルから学ぶことができれば、日本は非西欧世界における成熟した先進民主主義国として、持続的な発展が可能になるに違いない。
 新しい歴史のサイクルは国民一人ひとりの努力の集積である。 国民一人ひとりが過去の歴史のサイクルから学ばなくてはならない。  それなのに、歴史観の対立はもう一つの危機=国民の歴史離れをもたらしかねない。
 対立が先鋭化している歴史問題にうっかり足を踏み入れたら大変だ。 近寄らないに限る。  どちらとも決めかねている人は、対立するどちらも選択することなく、歴史から離れる。  その方が安全だからである。
 一人ひとりにとって正しい選択の結果はどうなるか。  歴史観の対立は続く。 歴史離れが拡大する。 国民は無関心になる。 歴史から学ぼうとする国民のモチベーションは枯渇する。 日本の持続的な発展は危うくなる。
 日本社会の分裂を修復する。 機能不全に陥っている政治を立て直す。 経済を回復軌道に乗せる。 そのような新しい歴史のサイクルを描くためには、歴史観の対立を相対化し、歴史から学ぶことが必要である。(いのうえ としかず)