・任地の代弁者になってしまう、不幸な外務省の罪の例だった。

・このごろの日本には、教育が過剰なために、教養がない男女が多すぎる。
・パーティで、これまで日本の外交官と、一度も出会ったことがない。 上級公務員試験に合格しようと、脇目ふらずに没頭したために、教養を欠いて、社交下手だからお呼びがない。
・私は陛下が外国に行幸(ぎょうこう)されるのは、日本を代表してその国を祝福されるためにお出かけになられるものだが、中国のように国内で人権を蹂躙(じゅうりん)している国はふさわしくないと、反対意見を述べた。
・外務省の樽井中国課長に 私が天安門事件以降の中国の人権抑圧問題を尋ねると、「天安門事件の前から、中国に人権なんてありません」と、悪びれずに言ってのけ、水爆実験をめぐる問題についても、「軍部が、中央の言うことを聞かずにやったことです」と、答えた。
・任地の代弁者になってしまう、不幸な外務省の罪の例だった。



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
『外務省の罪を問う』 序文にかえて
加瀬英明   2013.03.05
  日米の外務省にまつわる共通点といえば、日本の外務省の別名が「霞ヶ関」で、アメリカでは国務省が「フォギー・ボトム」(霧の関)と呼ばれていることだ。
  もう1つの共通点といえば、両国とも外交官が他の省庁から嫌われている。
  外交官の宿命だろうが、ある外国の専門家になると、その国に魅せられてしまうことだ。 そこで、その国の代弁者になるという罠に落ちやすい。
  もし、私がある南洋の国の文化と言語に打ち込んで外交官となったら、首狩り習俗を含めて、その国に強い親近感をもつことになろう。  その国に気触(かぶ)れて、日本の国益を忘れるようになる。   わが外務省にも気の毒なことに、国籍不明になった犠牲者が多い。
  私は41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、第1回福田・カーター会談を控えて、最後の詰めを行うことを頼まれた。  首相特別顧問の肩書きを貰って、ワシントンに入った。
  私はカーター大統領の後見役だった、民主党の前副大統領のハンフリー上院議員や、カーター政権の国家安全会議(NSC)特別補佐官となった、ブレジンスキ教授と親しかった。
 内閣発足後に、園田直官房長官から日米首脳会談に当たって、共同声明の“目玉”になるものがないか、相談を受けた。
 私は園田官房長官に“秘策”を授けた。  総理も、「それだ」ということになった。
 そのうえで、山崎敏アメリカ局長と会った。  すると、「そのようなことが、できるはずがありません」と、冷やかにあしらわれた。  私は首脳会談へ向けて、それまで両国が打ち合わせた記録――トーキング・ペーパーを見せてほしいと求めたが、峻拒された。
 「役割分担でゆきましよう」と促したが、木で鼻を括(くく)ったような態度で終始した。
 私はジョージア州アトランタの郊外の、寒村プレインズに飛んだ。  カーター大統領当選者の郷里で、次期大統領が政権移行準備事務所を構えていた。
 プレインズでは、次期大統領の母君のリリアン夫人、次期政権のハミルトン・ジョーダン官房長、ジョーディ・パウウェル・ホワイトハウス首席報道官をはじめとした側近、弟のビリー・カーターと知り合った。  とくに次期大統領が溺愛していた、妹のルースと親しくなった。
 トーキング・ペーパーのほうは、ワシントンに発つ前に、鳩山威一郎外相に見せてもらったから、それで凌(しの)いだ。
 もっとも、前年から引き受けていた講演があったので、すぐにワシントンへ出発できず、総理一行がワシントン入りした前日に着いて、ホワイトハウス国務省国防省などをまわった。   出発前に、電話で話をまとめていたから、念押しのようなものだった。
 翌日、ホワイトハウスの前にある迎賓館(ブレアハウス)で、総理一行と合流して、首尾よくいったことを報告した。
 福田カーター会談の共同声明では、私の献策が目玉になった。  私は2つの内閣で、園田外相の顧問として、アメリカにたびたびお伴した。
 園田外相は“ハト派”で、私は“タカ派”だったが、妙に気が合った。
 園田氏は外務官僚を「理路整然たるバカ」と、呼んだ。
 その後、私は谷川和穂防衛庁長官がワシントンにおいて、ワインバーガー国防長官と防衛技術交換協定を結んだ時に先行して、根回しを手伝ったが、外務省が嫉妬して、妨害したのに閉口した。  防衛駐在官事務所がウォーターゲート事件で有名になった、ウォーターゲート・ビルにあったが、防衛駐在官は本庁と連絡するのに当たって、大使館を使わなかった。
 私が最後に首相特別顧問の肩書きを貰ったのは、中曽根内閣だった。  だから、外務省とのおつきあいが、長かった。
 私は今もワシントンに、通っている。  親しい議員や、政権幹部の自宅のパーティに招かれると、諸国の外交官と同席する。  だがこれまで日本の外交官と、一度も出会ったことがない。 上級公務員試験に合格しようと、脇目ふらずに没頭したために、教養を欠いて、社交下手だからお呼びがない。
 このごろの日本には、教育が過剰なために、教養がない男女が多すぎる。
 私はフォード政権のラムズフェルド国防長官と、下院議員時代から親しかった。 ラムズフェルド長官のもとに、ケネス・エードルマン補佐官がいた。
 フォード大統領が民主党のカーター候補に敗れると、エードルマン氏はスタンフォード戦略研究所の研究員となったが、ブッシュ(父)政権で国連大使として返り咲いた。
 すると、「前政権で日本の外交官に会いたいといって、何回電話をしても相手にされなかった。 国連大使になったら、会いたいとしつっこくいってくるが、会いたくない。 彼らは肩書きとしか、付き合おうとしない」そういって、憤っていた。
 私は福田内閣時代に三原朝雄防衛庁長官によってつくられた、日本安全保障研究センターの理事長をつとめた。  三木内閣の坂田道太防衛庁長官が、申し送ったものだった。
 そのようなことから、外国から賓客がくると、坂田長官から同席するように求められることがあった。  そのつど、外務省の若い駆け出しのキャリアの事務官が、通訳に当たった。
 私はわきにいて、英語が下手なのに愕然とさせられた。  しばしば誤訳したが、訂正したら、有為な青年の将来を傷つけたことになったから、黙っていた。
 英語好きな日本人は警戒したほうがよい。  外国語は道具にしかすぎないのに、道具に仕えるようになる。
 外務省の出身ではなく大蔵省だったが、宮沢喜一首相がその典型だった。英字新聞をみよがしに小脇に挟んでいたことで、有名だった。 だが、在任中に英語で「アメリカにコンパッション(憐み)を示したい」と述べたために、ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、アメリカのマスコミを激昂させた。 本人はコンパッションが、「共感」の意味だと勘違いしていた。
 平成4(1992)年8月に、宮沢内閣が天皇ご訪中について、14人の有識者から首相官邸において個別に意見を聴取したが、私はその1人として招かれた。
 私は陛下が外国に行幸(ぎょうこう)されるのは、日本を代表してその国を祝福されるためにお出かけになられるものだが、中国のように国内で人権を蹂躙(じゅうりん)している国はふさわしくないと、反対意見を述べた。
 その前月に、外務省の樽井中国課長が私の事務所にやってきた。 「私は官費で中国に留学しました。 その時から、日中友好に生涯を捧げることを誓ってきました。 官邸にお出掛けになる時には、天皇御訪中に反対なさらないで下さい」と、懇願した。
 私が天安門事件以降の中国の人権抑圧問題を尋ねると、「天安門事件の前から、中国に人権なんてありません」と、悪びれずに言ってのけ、水爆実験をめぐる問題についても、「軍部が、中央の言うことを聞かずにやったことです」と、答えた。
 私が「あなたが日中友好に生涯を捧げられるというのは、個人的なことで、わが国の国益とまったく関わりがないことです。  私は御訪中に反対するつもりです」というと、肩を落して、悄然として帰っていった。
 任地の代弁者になってしまう、不幸な例だった。
■『外務省の罪を問う―やはり外務省が日本をダメにしている』(杉原誠四郎著)(自由社