・慰安婦問題で正されねばならないのは、平成5年に出された河野談話であり、「河野談話が慰安婦の強制連行を日本政府自身が認めたものと誤解されていること」である。

慰安婦問題で正されねばならないのは、平成5年に出された河野談話であり、「河野談話慰安婦の強制連行を日本政府自身が認めたものと誤解されていること」である。
・安倍首相が「慰安婦の強制連行を裏付ける証拠はなかった」と発言されたが、これは正しい発言である。
慰安婦問題に関する日韓両国政府の調査報告にも、その証拠がなかったのは事実であり、それをアメリカの議員やマスコミ、駐日大使までもが、問答無用とばかりの態度で安倍首相に発言の変更を求めたのは明らかに不当である。 
・日本外務省にも事実関係について充分な説明をしてこなかった責任がある。
・嘘で塗り固めた『私の戦争犯罪朝鮮人強制連行』(同58年刊)の著者 吉田清治は 強制連行の場所について、具体的に済州島の城山浦の貝ボタン工場と述べた部分があったために、嘘がばれることになった。
郷土史家の金奉玉は『1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる』と憤慨している」と述べている。
・日本政府は、平成4年7月6日に第1次調査を、平成5年8月4日の河野談話と共に「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」と題した第2次調査報告書を発表した。
 第1次調査報告は、防衛、警察、外務、文部、厚生、労働の各省庁の保管する資料を調査し127件の資料が発見された。 これを平成4年7月6日の記者会見で、資料を配布して加藤官房長官が説明、公表した。 この中には韓国政府が問題にしていた強制徴用の裏付けになる資料はなかった。
 第2次調査はB4判30頁の資料で、この中にも強制連行を証するものはなかった。 逆に300円から1000円を家族に払って22名の朝鮮人女性を集め、女性を連れてビルマに行った、という、妻及び20名の慰安婦とともに捕虜になった民間人慰安所経営者の証言がある(「連合軍の調査報告書」)。
また、1943年後半陸軍は負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は帰国して良い旨の命令を出した。これにより帰国をゆるされた慰安婦がいた(「米軍戦争情報局報告書」)。さらに、前借金の弁済が終われば、自由に朝鮮に帰ることができた、という記述もある(「連合軍調査報告書」)。
 このように日本政府の2度にわたる、手を尽くしての調査によっても強制連行の証拠、証言は得られなかった。





〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
 元朝総督府幹部が訴える  安倍総理、「河野談話」の取り消し決断を!

  事実認定の誤りが慰安婦問題の反論を制約している。
これ以上の独り歩きを許してはならない(P104〜116)
  元朝総督府道地方課長●だいしどう・つねやす 大師堂 経慰

 慰安婦問題への政府の対応が、ここにきてもたついている。 このまま謝罪を繰り返していては、問題の先送りになるばかりで解決はさらに困難になるのは目に見えている。 この問題には国家と国民の名誉がかかっており、これを正しておくのは先人および子孫にたいする我々の責任でもあると思う。  問題の重要性を真剣に考えれば、外交上の面子とか、責任者の責任追及とかを懸念して、いい加減な処理で済ませることがあってはならない。
 慰安婦問題で正されねばならないのは、平成5年に出された河野談話であり、「河野談話慰安婦の強制連行を日本政府自身が認めたものと誤解されていること」である。  安倍首相が「慰安婦の強制連行を裏付ける証拠はなかった」と発言されたが、これは正しい発言である。  慰安婦問題に関する日韓両国政府の調査報告にも、その証拠がなかったのは事実であり、それをアメリカの議員やマスコミ、駐日大使までもが、問答無用とばかりの態度で安倍首相に発言の変更を求めたのは明らかに不当である。 
 日本外務省にも事実関係について充分な説明をしてこなかった責任がある。改めて最初からの経緯を追って、どこで間違ったのかを明らかにしたい。

 本論の理解に資するために、先ず当時の公娼制度について触れておこう。

公娼制
 昭和32年売春防止法が施行されるまで、日本では娼妓の登録制、稼業場所の許可、健康診断の義務など一定の規制の下で、売春は合法であった。公認の貸座敷地域は国内各地にあったが、朝鮮でも現在のソウルをはじめ、釜山、北鮮の平壌など主な都会にはどこにもあった。
そこでは、日本人女性も朝鮮人女性も多数が働いていた。戦地の慰安所も概ねこの延長線上にあったものと思う。この経営者達が女性を連れて戦地に行き、施設、移送、衛生管理などについて、軍の便宜供与を受けて営業をしていたのが実態であったと思う。
これについては多くの資料があるが、平成5年8月4日の日本政府による調査報告や『今村均回顧録』(芙蓉書房)にもその実態を伺える記述がある。公娼制度については種々意見があるが、わが国では江戸時代から公娼制度を採用していた。
明治維新の改革の際、「娼妓、芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付イテノ貸借訴訟総テ不取上候事」との布告によって一時娼妓を解放したことがあった(明治5年太政官布告295号)が、その後私娼の弊に耐えずして、旧制に戻った経緯がある。現在の売春防止法施行下にあっては、売春はもとより、勧誘、周旋なども違法とされ処罰の対象である。

河野談話公表に到るまでの推移:
 慰安婦問題の論議に大きな影響を与えていたのは、千田夏光氏の著作『従軍慰安婦』(昭和53年刊)と吉田清治氏の著作『私の戦争犯罪朝鮮人強制連行』(同58年刊)であった。 特に吉田氏の著作では朝鮮人女性を強制連行する模様を、奴隷狩りさながらの表現で写実的に記述しており、さらに吉田氏自身が韓国を訪れて、韓国人聴衆を前に土下座して謝罪したとのことである。
 戦時中を体験的に知っている人たちは韓国人、日本人を問はず「何を、バカなことを言って」と思ったはずだが、戦時を知らない年代の人たちは「そんなことがあったのか」と、驚いたことであろう。  しかし、吉田氏は強制連行の場所について、具体的に済州島の城山浦の貝ボタン工場と述べた部分があったために、嘘がばれることになった。
 平成元年、前記吉田氏の著作の韓国語訳が出版されたとき、済州新聞の許栄善記者は同書の紹介記事を執筆している(8月14日)が、その中で「この本で記述されている城山浦の貝ボタン工場で15、16人を強制徴発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏付ける証言をする人はほとんどいない。
島民たちは、『でたらめだ』と一蹴し、この著作の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。 城山浦のチョン・オクタン(85歳の女性)は『250余の家しかないこの村で、15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時そんな事実はなかった』と語ったと述べ、さらに郷土史家の金奉玉は『1983年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。
この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる』と憤慨している」と述べている。
 この他秦郁彦教授が吉田氏との直接対話の結果、著作の信用できないことを明らかにしておられる(秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』230頁、233頁新潮選書)。
 しかし、吉田氏の著作などを根拠にして一部市民団体や、弁護士などが韓国に渡り、こういう問題を提起しなさい、こういう主張をしなさい、などと元慰安婦をあおり、それを受ける形で日本の国会でも当時の社会党議員であった本岡昭治議員や清水澄子議員などが質疑を行ったりしていたが、この問題に政府が直接表面に出ることになったのは、平成4年1月であった。

加藤紘一官房長官の謝罪談話
 慰安婦問題の処理を誤った原点は、平成4年1月の朝日新聞の記事に対する宮沢内閣の誤った対応にあった。
 この日、朝日新聞は「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その数は8万とも20万ともいわれている」と報じた。 これに驚いた宮沢内閣は記事の内容についての検討は殆どすることなく謝罪を表明したものと思われる。
 続いて訪韓した宮沢首相は謝罪と反省を何度も繰り返し、同行記者との懇談では「あったことは、あったこととして、次のジェネレーションに正確に伝えていかなければならない。教育は確かにその1つ」と語っている。 これが日本軍による強制連行を日本政府自身が認めたものとの誤解を世界に広げたのである。これこそ河野談話の原点であった。
 当時の責任者であった人達、宮沢元首相、加藤元官房長官、谷野元外政審議室長、そして朝日新聞にも敢えて聞きたい。 貴方方は今でも、あの新聞報道や、それに対する宮沢内閣の対応は正しかったとお考えなのか、ご意見を是非とも聞かせて頂きたい。 この意見こそ、慰安婦問題究明の道を拓くことになると思う。 日本の名誉回復のために是非ともご協力をお願いしたい。
 重複もあるが、重要なことなので事実の推移を正確に述べておきたい。

 平成4年1月11日、朝日新聞は「慰安所、軍関与を示す資料発見、民間任せ政府見解揺らぐ」と大きく報じたが、要点は2つあった。
 第1は、それまで慰安婦問題に政府は関与していないと説明してきたが、政府の関与を示す資料が見つかった、である。
 第2は、挺身隊の名で、主として朝鮮人婦女子を強制連行した。その数は8万とも20万とも言われている、であった。
 この記事に驚いた宮沢内閣は、記事の実態についての確認も行わず、2日後の1月13日に、加藤紘一官房長官は次のような謝罪談話を発表した。
《一、関係者の方々のお話を聞くにつけ、朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦の方々が体験された辛い苦しみを思うと胸のつまる思いがする。
 二、今回従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与したと思われることを示す資料が防衛庁で発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受けとめたい(以下略)》
 これに加えて、その直後に訪韓した宮沢首相は盧泰愚大統領との会談で謝罪と反省に8回も言及し、更に同行記者団との懇談では「あったことは、あったこととして次のジェネレーションに正確に伝えていかなければならない。教育はその1つ」と語っている。

 一体、加藤官房長官や宮沢首相は、挺身隊の名で8万とか20万名の朝鮮人女性を強制連行した事実があったと考えてこのような謝罪と反省を口にしたのか。少なくとも外国では、朝日の記事を日本政府が事実として、全面的に認めたものと受け取られたのである。
 これによって「日本政府による強制連行と、20万人」という数字が定着し、その後は独り歩きするようになった。
 宮沢内閣の、この対応は明らかに軽率であり、間違っていた。これは外務官僚の不勉強と情報収集、分析の不足によるものであった。  加えて、このような謝罪談話の今後の外交に及ぼす影響についての考慮が全く欠けた対応であった。
「政府の関与を示す資料発見」の記事については、発見されたという資料を実際に見れば、全く問題にする必要のない資料であることは、すぐ分かるはずである。「挺身隊の名で強制連行した」という記事は全く根拠のないものであり、読者に誤解を与えることを目的としたものと断じてよいものであった。
 政府の関与を示す資料とは、慰安婦募集に関わった業者の一部にトラブルを起こしたりしたことがあったため、「慰安婦の募集は適正になすように業者を指導せよ」と軍の中央から出先に宛てた通達であり、常識的なもので、特に取り上げて問題にするほどのものではなかった。
 挺身隊とは戦時中、労働力不足に対応して総動員業務に動員されたものであるが、総動員業務とは総動員法に列挙された総動員物資の生産、輸送、保管等の業務であった。従って慰安婦が徴用の対象になることが制度上あり得ない。また、韓国政府も調査報告で、挺身隊と慰安婦は無関係であると述べている(日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書)。
 仮にも8万とか20万の女性が強制連行されたとすれば、数十万から百万の目撃者がいるはずである。 戦後早々から、これに対する抗議運動が大きく展開されて当然であろう。 目撃者の証言など聞いたこともない。 朝日がこれを知らぬはずがない。 この記事は慰安婦問題について世論誤導を目指したものと断じてよいものであった。

河野洋平官房長官談話
 政府は平成5年8月4日に慰安婦問題について強制連行を認めた「河野談話」を公表した。 さきの加藤官房長官の謝罪談話は、首相の訪韓を間近に控えた時間的な制約もあって充分な調査ができなかったという事情があったとしても、河野談話は公表までに十分な時間があり、この問題について日韓両国政府による、それぞれの調査結果も明らかになっている。
 これらの調査資料を基礎にして、あのような河野談話の立案、決定がなされたとすれば奇怪としか言いようがない。 公表された日韓両国の調査結果と河野談話には多くの矛盾が見られ、整合していないからである。
 韓国政府は、1992(平成4)年7月31日に「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表している。 この報告書では、それまで韓国政府が強く要求していた強制連行について、吉田清治氏とか千田夏光氏など日本人の著作を引用して強制連行を推定する手法を採ったり、元慰安婦13名の証言を裏付け調査も行わずに列挙して強制連行を説明しようとするものであった。
 当時、韓国内では戦時中を体験的に知っている人がまだ多数おり、この人達の目撃証言こそ実態究明の決め手となり得るものであったが、この中間報告では強制連行の根拠をそこに求めた記述はなく、強制連行の根拠として説得力のある記述は全く見当たらない。 注意深く読むと、この報告書は強制連行の立証に確信のないことを、実質的に認めたものと判断できる内容であった。
 日本政府は、平成4年7月6日に第1次調査を、平成5年8月4日の河野談話と共に「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」と題した第2次調査報告書を発表している。
 第1次調査報告は、防衛、警察、外務、文部、厚生、労働の各省庁の保管する資料を調査し127件の資料が発見された。 これを平成4年7月6日の記者会見で、資料を配布して加藤官房長官が説明、公表した。 この中には慰安所の設置、慰安婦の募集取り締まり、慰安所の築造、慰安所の経営監督、慰安所の衛生管理、慰安所関係者への身分証明書の発行などの資料があり、政府の関与は明らかになったが、韓国政府が問題にしていた強制徴用の裏付けになる資料はなかった。
 第2次調査はB4判30頁の資料で、この中にも強制連行を証するものはなかった。逆に300円から1000円を家族に払って22名の朝鮮人女性を集め、女性を連れてビルマに行った、という、妻及び20名の慰安婦とともに捕虜になった民間人慰安所経営者の証言がある(「連合軍の調査報告書」)。
また、1943年後半陸軍は負債の弁済を終えた何人かの慰安婦は帰国して良い旨の命令を出した。これにより帰国をゆるされた慰安婦がいた(「米軍戦争情報局報告書」)。さらに、前借金の弁済が終われば、自由に朝鮮に帰ることができた、という記述もある(「連合軍調査報告書」)。
 このように日本政府の2度にわたる、手を尽くしての調査によっても強制連行の証拠、証言は得られなかった。しかし、韓国政府は加藤官房長官の謝罪談話や宮沢総理の盧泰愚大統領への謝罪、さらには同行記者団との懇談における発言などを「質」にとり、日本政府が自発的に強制連行を認めるよう外交攻勢をかけ続けていた。
 これに対して、その間に見せた日本の外務官僚の姿勢はどうであったか。責任の自覚はあったのだろうか。平成5年2月11日の読売新聞は「今までのところ強制連行の十分な裏付け資料がなかったからといって、突っぱねるだけでは解決しない、との意見が強まっている」と報じ、さらに「政府は第2回調査結果公表の際、従来の方針を転換し、旧日本軍が朝鮮人慰安婦を強制連行した可能性について言及する方向で検討に入った」と報じている。
そして、3月4日の同紙では、「政府はこれまでの姿勢を転換して、強制連行の事実を認める方向で検討に入っているが、その証拠となる資料が発見されないことから、対応に苦慮している」と報じている。外務官僚はこの段階で既に、たとえ証拠、証言があろうがなかろうが、強制連行を認める方針を決定していたのではないだろうか。
 先ず、さきに述べた平成元年8月14日の済州新聞に掲載された吉田清治氏の著作の内容について疑問を提起した許栄善記者の執筆を無視している。これは、ソウルの日本大使館からも情報としても上がってきているはずだが、たとえそれを見落としたとしても、平成4年5月に発行された月刊誌『正論』6月号で秦郁彦教授がその内容を発表しておられるし、産経新聞もこれに関する記事を報道している(4月30日)。
外務省の関係者は、これによって吉田氏の著作の内容にも疑問を抱き、さらには平成4年1月に公表した加藤官房長官の謝罪談話の再検討に、速やかに取りかかるべきではなかったか。更に付け加えれば、このことは、あったとすれば朝鮮での出来事であるが何百年も昔のことではない。そして目に見える具体的な事象である。当時を体験的に知っている人がまだ多数生存していた時期であるのに、外務省はこれらの人を直接訪ねての聞き取り調査をすることなどをどうして怠ったのか。その手順を踏んでこの問題の処理にあたれば誤りは確実に回避できたはずである。
 このような状況でありながら、日本政府は「強制連行は容認は出来ない、または強制連行はなかったと考えざるを得ない」と、どうして韓国政府に申し入れができなかったのか。加藤談話で謝罪しているので、あれは勘違いだった、とは今さら、面子の上からも言えないと考えたのか。
 韓国政府の調査報告によっても、日本政府の2度にわたる調査報告によっても強制連行を証する資料は全くなかった。それを、敢えて加藤談話を引き継いで、強制連行を認める決定をしたのは、どんな理由によるものか。考えられるのは次のようなことであろうか。
 1、謝罪した前言を、いまさら翻すことはできないと面子にこだわったのか。
 2、連日官邸に押し掛けたデモ隊の威嚇に屈したのか。
 3、韓国政府の要請が強いので、応じるのもやむを得ないと考えたのか。
 以上のどれであったにしても、外務官僚の姿勢は無責任過ぎるし、国民を見下した傲慢さすら感じさせるものであり、絶対に許されることでない。
 結局、このような経緯で韓国政府の要求を容れ、16人の元慰安婦の聞き取り調査で強制連行を認めることになったが、この聞き取りは非公開で行われ、裏付け調査をすることも認められないものであった。

   元朝総督府幹部が訴える  安倍総理、「河野談話」の取り消し決断を!

  事実認定の誤りが慰安婦問題の反論を制約している。
これ以上の独り歩きを許してはならない(P104〜116)
  元朝総督府道地方課長●だいしどう・つねやす 大師堂 経慰


  河野談話の検討
 河野談話については、談話が発表されたときから疑問がもたれており、更に検討が必要であるとの意見は少なくなかったし、事実、国会議員、学者、ジャーナリストの間でも検討が続けられていた。目に見える成果が挙がったのは平成9年に入ってからだった。
 先ず参議院予算委員会では、3人の議員によっての質疑がなされたが、片山虎之助議員が1月30日、小山孝雄議員が3月12日、板垣正議員が3月18日にそれぞれ、かなり長い時間をかけての質疑であった。政府側が答弁に窮する場面もあり、強制連行の根拠については具体的な証拠、証言を示すことができず、集めた資料を検討して総合的に判断したと説明するのが、やっとであった。国会で3人もの議員が、この問題についてこれほどの時間をかけての質疑は、後にも先にも例がなく、甚だ有意義な審議であった。
 この年は教科書検定の年に当たっていたこともあり、自民党の議員が「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を結成し、3月から6月にかけて河野元官房長官、石原元官房副長官をはじめ外務官僚、大学教授などを招いて9回の勉強会を開いている。会で述べられた意見は本に纏められ刊行されている(「歴史教科書への疑問」、展転社)。
 このような中で特に印象深かったのはジャーナリストの櫻井よしこさんが、『文藝春秋』4月号に寄稿された「密約外交の代償」と題する解説であった。加藤紘一官房長官、石原信雄元官房副長官谷野作太郎元外政審議室長などに直接取材して纏めたものであり問題の核心を正確に捉えて、強制連行の根拠の乏しさを明らかにして、この問題についての国民の理解を大きく深め、広めたものであった。
 これらを機に河野談話による強制連行は根拠を疑われるようになり、総ての教科書で取り上げられていた慰安婦問題の記述が次第に改められ、今日の中学教科書では全く見られぬようになっている。また、これまで強制連行を強く主張していた朝日新聞も論旨を変えて、「日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題を捉えようとする議論の立て方は、問題の本質を見誤るもので、慰安婦の募集、移送、管理を通して強制と呼ぶべき実態があったことは明らかだ」と、問題をすり替えながらも、強制連行の主張を取り下げる姿勢に変わってきた(平成9年3月31日付社説)。
 この主張は、誤解を招く恐れがあるので付言しておきたい。募集段階での強制と移送、管理段階での強制はその性格を全く異にするものである。これを一括して強制性があったというのは誤解を招く。募集段階での強制は公娼制度の下でも違法な犯罪行為である。
しかし当時、判例は娼妓に関し身体の拘束を目的とする契約は公序良俗に反し無効、従って娼妓には廃業の自由はあったが、前借金契約は有効との立場をとっていた。(我妻栄横田喜三郎宮沢俊義編、『法律学小辞典』岩波書店昭和12年発行、「娼妓」の項)。前借金契約を結んだ娼妓にとって、契約に基づく借金返済義務のあることは当然である。
借金の返済を終えた娼妓が自由になり、戦地からも帰国できたことは平成5年8月4日の政府調査報告でも明らかにされている(「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」)。朝日新聞の主張は公娼制度の批判とはなり得ても、強制連行の存在を証するものではない。
 当時、我々は河野談話について「強制連行があったのか、なかったのか」を問題にしていたのであり、募集段階での強制、強制連行はなかった、と言っているのである。これが判っていて、なお移送、管理段階で強制があったという主張は公娼制度についての批判である。それはそれで、強制連行があったのか、なかったのかの議論とは別に納得のいくまで議論をすればよい。
 このように平成9年を境に河野談話の強制連行は、その根拠を欠くことが明らかにされたが、海外では強制連行の誤解が解消されていない。平成8年にはクマラスワミ報告が国連の人権委員会に提出されたが、それは「戦地の慰安所国際法違反として日本の責任を問い、性奴隷にされた慰安婦に謝罪して賠償金を払うことなどを勧告している」ものであった。
また平成10年にはマクドウガル報告がレイプセンターなどという言葉を使って日本の責任を問い賠償を勧告している。そして、これらと同じような誤解がアメリカ下院での慰安婦問題についての対日非難決議を実現させたのである。これらは間違いなく河野談話を放置していることに因るものである。
強制連行の事実がなかったことを政府が明確にせず、河野談話を放置していることによって、繰り返されているのである。日本は、いまこのような位置にいることを国民は自覚して欲しい。河野談話を引き継ぎながら、強制連行がなかったと主張するのは無理で、それは問題解決の先送りになるだけである。徹底した事実調査と、それに基づく河野談話の処理がどうしても必要である。
強制連行の根拠についての責任者の説明
 このように、海外では明らかに日本政府による強制連行があったと誤解している。これに対して河野談話作成に携わった関係者はどう考えているのだろうか。
 河野元官房長官は、平成9年6月17日に「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」で説明しているが、あとの質疑で次のようなやりとりがあった。
 衞藤晟一議員は「強制連行が事実かどうかはっきり分からない状況で、゛ほぼ事実に近いですよ″という形の言いかたをすると、それが結局事実になるわけです。事実ということを実証できないのに事実になってしまう。少なくとも、私ども、いままでの勉強会の中では、軍の強制連行は証明できませんでした。
いま外国で言われているのは、日本という国はとんでもない国だ、そこに歩いている女性を強制的に軍隊が引っ張ってきてセクシャル・スレイブとして使ったんだと。そういう印象を与えて、そしてそのことが広がっているということが問題なので、ここのところで本当に軍の強制があったのかどうなのか、という1点の事実確認はどうですか」という質問をしている。これに対して、河野元官房長官は「軍の直接関与があったかどうか、あるいは間接関与があったかどうか、という問題があるわけです。
つまり兵隊が女性に飛びかかってレイプをして、そのまま連れていっちゃった、あるいは引っ担いで連れていっちゃったという、軍そのものがやったかどうかという問題と、あのころの時代的背景から言うと、軍の力というものはもう圧倒的、非常に強い権力を持っていた。そういう軍を背景に、表現はちょっと適切ではないかも知れませんが、人狩り、女衒の類が背後に軍がいるようなことをちらつかせてやったということもあるかもしれない、ということまで含めて考えていただきたいと思うんです」と答えている。
 続いて、平沢勝栄議員の、「要するに状況からして、その可能性が高い、蓋然性が高いということでしょうか。先ほど゛だろう″、とか゛と思える″とかいうお話をされましたが」との質問に対しては、「資料を集めて、議論したとき゛これならやはりあったと思わざるを得ない″と私が思ったことは事実です」と答えている(若手議員の会編、「歴史教科書への疑問」、展転社、438頁以下)。
 石原信雄元官房副長官は、「結論として、強制連行を裏付ける資料は見つからなかった。談話発表の直前に行った韓国での元慰安婦16名からの聞き取りが決め手になった。この調査については裏付け調査はしていないが、当時の状況ではそれはできなかった」と語り、「裏付け調査はせずに河野談話を決定したことに異論のあることは承知している。
決断したのだから弁解はしない」とも語っている。事実この姿勢には異論もあり、若手議員の会安倍晋三事務局長は、平成9年6月17日の勉強会で、「元慰安婦16名のインタビューに裏付けをとっていないというのは、被害者だからそんなことをするべきでないということも分からないこともないが、ただ国家として態度を決めるからには、やはりそれをする必要があるんだと私は思う」と述べている。
 当時の外政審議室長の谷野作太郎氏は「募集レベルで軍が組織的に引っ張ったという認識はない」と語っており(櫻井よしこ文藝春秋』平成9年4月号)、また平林博元室長は、国会で「政府は公開されていない資料、個々の裏付け調査をしていない資料で、平成5年8月4日の決定をしたことになるのか」と、質問されて、「結論としてはその通りだが、資料全体を仔細に検討して総合的に判断した結果である」と答えている(平成9年3月12日、参議院予算委員会)。
アメリカ下院での論議と日本政府の対応
 安倍首相は今年3月5日の参議院予算委員会で、「狭義の慰安婦強制連行はなかったし、アメリカ下院に出されている決議案には明らかに事実誤認がある」と述べたが、他方で「政府の基本的な立場として河野談話を受け継いでいる」と述べている。
「強制連行の事実はなかった」という主張と「河野談話を引き継ぐ」という主張を両立させることには無理があると思う。各国の責任者は問題の詳細を知らないのが普通であろう。「河野談話は引き継ぐ」と言いながら他方で「強制連行はなかった」ということを納得させるには
、長時間をかけての詳細な説明が必要であり、それは現実的には不可能に近い。聞いている側は頭がくらくらする思いになるだろう。外交上の面子はあろうが国家の名誉がかかっている問題である以上、ここは敢えて河野談話の再検討に踏み切り、河野談話の誤りを明らかにして、これを公式に取り消す以外に、この問題の実態について内外の正しい理解を得る手だてはないのではないか。
 安倍首相の「強制連行の事実はなかった」という発言は決して単なる思い込みや官僚の国会答弁資料によったものではない。この問題の実態について、かなり深く研究して得られた結論であり、発言には自信が感じられ、正しいと言える。
 しかし、河野談話は引き継ぐが、強制連行はなかったのだ、という説明ではアメリカ下院議員を納得させることは困難であろう。去る2月25日のフジテレビの「報道2001」に出演した、決議案にもかかわっている、マイク・ホンダ議員は「強制連行がなかったのなら、どうして首相が謝罪したり、民間のアジア平和基金による元慰安婦への資金の提供が必要なのか」と語って、「強制連行はなかった」とするテレビ司会者の発言には最後まで納得しなかった。
 安倍首相の「狭義の強制連行はなかった。アメリカ議会下院での、慰安婦問題に関する対日非難決議案は客観的事実に基づいていない」との主張と駐米日本大使の説明は呼吸が合っていない気がしてならない。
西岡力教授によれば、事態をここまで悪化させたのは、慰安婦問題についての米国内での議論で、日本外務省は「慰安婦20万という数字は間違っているとか、日本政府は元慰安婦に謝罪している」などと説明するだけで「朝鮮人慰安婦の国家権力による強制連行はなかった」と事実関係に踏み込んだ反論を回避してきたからだと述べておられる(『正論』平成18年11月号)。
全くその通りで、ここで見せた外務官僚の姿勢は平成8年4月の国連人権委員会におけるクマラスワミ報告の討議のときに見せた姿勢と全く同じである。そのとき日本政府は、誤解に基づく記述の多いクマラスワミ報告の事実関係の記述についても反論すべく、1度は「日本政府の見解」という文書を事務局に提出したが、すぐにそれを撤回して「日本政府の施策」と題する文書に差し替えている。
差し替えられた資料では事実関係についての反論は行わず、慰安婦問題について日本政府がそれまでにとってきた施策、河野談話女性のためのアジア平和国民基金の紹介などにとどめている、とのことである。しかし、これでは強制連行を日本政府が再確認したことになり逆効果ではなかったか(秦郁彦著『慰安婦と戦場の性』新潮社、277頁)。どうして外務省はこのような姿勢に終始するのか。
河野談話の再検討、否定ということになっては困る、という気持ちが動いているのではないか。たとえ、外交上の面子や責任問題が考えられても、この際慰安婦問題の実態をきちんと整理して、アメリカ下院の関係者に明確な説明をすることがどうしても必要である。
河野談話」を如何にして取り消すか
 慰安婦強制連行の誤解は速やかに解消せねばならない。従って「河野談話」は速やかに再検討して、1日も早く公式に取り消されねばならないのである。
 取り消しの具体的な方法の第1は、政府で再検討する方針を決定し、委員会でも設置してその答申を得て処置することであろう。第2は国会での質疑に対する政府答弁で実質的に河野談話を取り消す方法であり、第3は河野談話取り消しを求める訴訟を提起して、判決によって取り消す方法等が考えられるのではないだろうか。
 第1の方法は、河野談話を引き継ぐと言明している安倍内閣では、政府自ら再検討することの方針決定自体が困難であるかも分からないが、事の重要性を考えて、できれば決断して欲しい。
 第2の国会での質疑に対する政府答弁で、実質的に河野談話を取り消すことは最も常識的な方法かとも思うが、効果の伴う取り消しとするには政府として河野談話の公式な取り消しを決定し、公表する形式を踏まねばなるまい。
 第3の訴訟による「河野談話の取り消しを命じる判決」が得られれば、これは行政から独立した司法の判断であるので最も都合のよい方法であり、安倍内閣も内心ではこれを望んでいるのではないかと思う。ただ、これには、訴えの利益とか、原告適格の問題などが考えられ、却下の恐れもあると思われるので専門家による検討が必要であろう。
しかし、河野談話の問題点は「事実認定を誤っている」ことであり、この点は行政の自由裁量の範囲に属するものではない。この「事実認定の誤り」を裁判の判決で正したいということであるので、常識的には可能ではないかと思われるし、審議に入れば「事実認定の誤り」は立証できる。
おわりに
 朝鮮人の女性を8万人とか20万人とか強制連行したとすれば重大問題である。それを目撃した人は百万人を超えているはずである。強制連行が事実だとすれば、民衆から敬愛の目で見られていた学生達が先頭に立って抗議運動を展開していたはずである。
戦後47年間、日韓間で何も問題にされないことなど考えられるであろうか。また1965(昭和40)年に締結された日韓条約の長期にわたる交渉過程でも、問題にされていない。強制連行があったとすれば、それに続いて、或いは戦後早々から展開されて当然と思われる事象は何1つ起きていない。
 以上のように普通の国では考えられない非常識がまかり通って、それが積み上げられた結果が河野談話であった。
 これは何百年も昔のことではない。いまでも80歳以上の人なら当時のことを体験的に知っており、当時の実態を語ってくれるはずである。この人達の証言を集めることも実態解明に役立つだろう。
 最後に、慰安婦強制連行の論議をしているとき、「それでも強制連行はあった」と主張する人が、実例として挙げるのが、ジャワ島でオランダ人女性を強制連行した事件である。最近ではアメリカ下院での対日非難決議の証人としても証言しているので、その実態を説明しておきたい。
これは、いま問題にされている日本政府による組織的犯罪というものではなく、B、C級戦争犯罪というべきものである。戦後軍事裁判にかけられ、死刑を含む重罰が科せられている。平成5年8月4日発表の日本政府の調査報告によると訴追の対象になったのは、ジャワ島セラマン所在の慰安所関係の事件について、軍人5名、民間人4名、同じくバタビヤ所在の慰安所関係の事件で民間人1名であった。
判決によると認定された事実は「(元陸軍大佐の場合)兵站関係担当将校として、ジャワ島セラマンほかの抑留所に収容中であったオランダ人女性らを慰安婦として使う計画の立案と実現に協力したものであるが、慰安所開設後(1944年2月末頃)、女性らが同意の上、抑留所を出て自発的に慰安所で働くという軍本部の許可条件が満たされていないことを知り得たのに、その監督を怠り、同年4月頃、事態を知った軍本部が慰安所閉鎖を命じるまでの間、部下の軍人または民間人が慰安所で女性に売春を強要するなどの戦争犯罪行為を行うことを黙認した(判決、有期刑15年)」というものであった。
他の判決での事実認定も軍人については略々同じようであったが、民間人は慰安所経営者であり、女性を脅すなどして売春を強要したという認定であった。判決は、元陸軍大佐、有期刑15年。元陸軍少佐、死刑。元陸軍少佐、有期刑10年。元陸軍大尉、有期刑2年。元陸軍中将、有期刑12年。民間人4人は、いずれも有期刑で20年、15年、10年、7年であった(「いわゆる従軍慰安婦問題の調査結果について」9頁)。
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元朝総督府道地方課長
●だいしどう・つねやす 大師堂 経慰

(略歴)
大師堂経慰氏 大正6(1917)年朝鮮生まれ。
昭和16年12月、京都大経済卒。
朝鮮総督府入府。
農商局事務官の時終戦
引き揚げ後、商工(現経産)省入省。
昭和34年、広島通産局商工部長で退官。
日本合成ゴム(現JSR)入社。常務、専務、子会社役員等を務め昭和58年退社。

著書に『慰安婦強制連行はなかった』(典転社)。
『別冊正論』(第2号「日韓・日朝歴史の真実」)で「強制連行」「創氏改名」について当時の事実を語っている。