昔の日本の教育は 世界一高い教養を授けたのだ!

・テレビに功など、今や、まったく無い。60年前の日本人はみな律気で、節度を守って、家族の絆がしっかりしていたし、隣近所の縁も大切にした。それを壊した元凶が、テレビだ!
・警視庁とか、国税庁の庁の本字は廰ですが、民の声をよく聞くことが役目だ! それが面倒だから、庁にしたのか? 廰に戻せ!
・かつて、日本人は心の民だった。 今では建物や、住居を鉄やコンクリートやガラスによって密閉するようになってから、風や、情けが通わなくなった。
・ハーンは日本人の心性の高さに、魅了された。 日本の西洋化が進むのを嘆いて、口癖のように、「耶蘇(やそ)の西洋化が悪いのです」といった。 
樋口一葉は11歳で4年制の小学校を卒業しただけだった。「流れゆく我が国の末いかなるべきぞ」と日記に認めた。教養ある女性だった。
昔の日本の教育は 世界一高い教養を授けたのだ!




〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
60年前の“夏めく”   
加瀬英明  2013.09.12
 先日、ラジオ番組に出演したところ、「今年は日本でテレビ放送がはじまってから、60周年に当たりますが、テレビの功罪について、どう思いますか?」と、質問された。
  街頭テレビをはじめて観た、60年前の夏の記憶が、突然、甦った。 8月の暑い日だったが、鎌倉の市役所の前あたりに街頭テレビが設置されて、黒山の人だかりだった。
  私は16歳だった。わが家が鎌倉にあった。この年1月にNHKが、テレビ本放送をはじめていた。 ラジオ局から戻ってから、年表を調べたら、8月に日本テレビがはじめて民放局として、放送を開始していた。
  私はラジオ番組のホストに、「テレビに功など、まったくありません。60年前の日本に戻ってみましよう。日本人はみな律気で、節度を守って、家族の絆がしっかりしていたし、隣近所の縁も大切にしました。それを壊した元凶が、テレビです」と、答えた。
「テレビがなかったら、きっと60年前の日本が守られていたことでしよう。漢和辞典をひくと、目がついた字には眠る、眩(めまい)とか、瞑(くらい)とか、知的なものが、1つもありません。
 目と違って、耳偏がついた字は聡(さと)く、聖は耳のあなが通って、よく声が聞こえる人です。
  聴くの𢛳は立てるという意味ですが、耳を立ててよく聞く。行人偏の行人は修行者ですが、徳と同じ字です。 警視庁とか、国税庁の庁の本字は廰ですが、民の声をよく聞くことが役目です。 それが面倒だから、庁にしたんでしよう。
 愚か者は、人をじゃらすだけのテレビを見て、賢い人は、ラジオを聞きます」
  テレビを観ていたら、ある教授が「アメリカの研究所に招聘されましてね」と、得意気にいった。 「招聘」の「聘」は耳がついているから、賢者のことだ。 招かれる側の者がいう言葉ではない。
  60年前といえば、夏めくと、家のなかも衣更えした。  座敷の襖(ふすま)や、障子をとり払って、簾(すだれ)を掛けて、涼しげな夏座敷を装ったものだった。
 日本語には、夏扇、風鈴、夏衣(なつぎぬ)、夏帯、夏座布団(なつざぶとん)、夏布団、夏掛け、夏神楽、夏羽織、夏足袋をはじめとする、夏の到来にともなう多くの語彙がある。
  青々と茂った夏山、夏木立、夏陰、夏らしく装った家である夏館(なつやかた)は、みな季語だ。 はだしも、夏の季語だった。はだしで下駄を履くのが、快かった。 季語、季題は、日本に独特なものだ。
  路地に竹や木で造った縁台を出して、近所の人々と心を配りあって、夕涼みに時を過した。 住居は風の通りみちだった。 私たちは季節のうつろいにも、人にも、心をつかった。 心は情けの通りみちだった。

  日本語には、心配り、心づかい、心合い、心情け、心づくし、心有り、心意気、心勢い、心一杯、心入れ、心得、心がけ、心根、心がまえ、心ぎき、心添え、心碎き、心立てをはじめとして、心がついた言葉が、200以上もある。
 ところが、英語となるとコンサイスをひいても、心heartがつく熟語は、heartattack心臓麻痺、heartburn胸焼け、heartdisease心臓病といった言葉ばかりだ。
 かつて、私たちは心の民だった。 それなのに、今では建物や、住居を鉄やコンクリートやガラスによって密閉するようになってから、風や、情けが通わなくなった。
  西洋人の猿真似に、うつつを抜かした成れの果てだ。小泉八雲(イギリス名、ラフカディオ・ハーン、1850年〜1904年)といえば、日本に帰化した作家で、文芸評論家だった。
 ハーンは日本人の心性の高さに、魅了された。そして日本の西洋化が進んでいるのを嘆いて、口癖のように、「耶蘇(やそ)が悪いのです」といった。 耶蘇はキリスト教のことだが、ハーンは西洋化という意味で使っていた。
 夏といえば、夏子という女性がいた。今から、110年以上前になる。 5千円札に樋口一葉の肖像が、あしらわれている。 一葉は筆名で、本名をなつというが、夏子とも書いた。
 樋口一葉は日本が日清戦争に勝った翌年に、25歳の若さで病死した。 一度も、洋装をしたことがなかった。 5千円札の肖像はなつがたった1回だけ、写真館で撮った写真がもとになっている。 しかし、顔から陰翳(いんえい)を取り除いて、平面的にしたために、もとの写真の理知的で、蠱惑(こわく)的な美貌が伝わらない。
 なつは、明治5(1872)年に、東京府の下級官吏を父として、府庁舎の長屋で生まれた。 父は甲斐(かいの)国(くに)(現在の山梨県)の農家の子で、明治元年の11年前の安政4(1857)年に、江戸に出た。 なつが17歳になった時に、父が事業に失敗し、多額の借金を残して病死した。
 なつは母と妹をかかえて、針仕事や洗い張りなどの内職によって生活を支える、不遇な生涯を送った。  明治29(1896)年に、肺結核で亡くなった。
 なつは日記を遺したが、病没した前年の明治28(1895)年に、日記に「安(やす)きになれておごりくる人心(ひとごころ)の、あはれ外(と)つ国(くに)(註・西洋)の花やかなるをしたい、我が国(くに)振(ぶり)のふるきを厭(いと)ひて、うかれうかるゝ仇(あだ)ごころは、流れゆく水の塵芥(ちりあくた)をのせて走るが如(ごと)く、とどまる處(ところ)をしらず」「流れゆく我が国の末いかなるべきぞ」と、嘆いている。
 私は5千円札を手にするたびに、なつの警告を思い出す。  なつの学歴といえば、11歳で4年制の小学校を卒業しただけだった。  それにしても、いまの日本には教育があって、教養がない女性ばかりしかいない。