・民主化以降、韓国の「人権」の主張が「普遍的」であったことはない。

・戦時下の行動に平時の価値観から遡及(そきゅう)することへの疑問はよく聞かれるが、そもそも韓国が慰安婦問題で主張する「人権」はどこまで「普遍的」なのか。
・危うく絞首台の露と消えかけた金大中氏が、後に減刑され政治活動を解禁されたのも、救命を求めた人権運動によるところが大きい。
民主化以降、韓国の「人権」の主張が「普遍的」であったことはない。
・韓国があらゆる人権問題から、「戦時下における女性」のみを切り取って標榜(ひょうぼう)する「人権」とは、日本という特定の国の過去の追及という特定の政治目的を果たすために、国際社会の支持を求めて掲げられたものにほかならない。 
・その主張はどこまで「普遍的」か、国際社会に向けて発せられる主張として、果たして「公正」なのかが問われねばならない。







〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
韓国の「人権」に普遍性はあるか 
防衛大学校教授・倉田秀也   2014.3.31 03:18 [正論]

 ジュネーブで開かれた国連人権理事会は、奇妙な様相を呈していた。5日の高級会合で、韓国の尹炳世外相が「今でも世界各地の紛争地域で深刻な性暴行が横行している」と述べ、「過去に発生して今も解決されないまま進行中の問題」の実証的な事例として、「日本軍慰安婦被害者」を挙げた。また、この会合では、国連の北朝鮮人権調査委員会がまとめた同国の人権に関する報告書が提出された。同じ理事会で、「人権」問題の面から、日本は北とともに追及されたことになる。
慰安婦が女性の人権問題に≫
 韓国の外相が国連人権理事会に足を運んだのは、初めてではない。2006年の理事会でも、潘基文外相(現国連事務総長)が出席し基調演説をしているが、慰安婦問題には触れていない。それ自体、慰安婦問題で韓国が新たな外交攻勢を仕掛けていることを示している。
 最近の韓国での慰安婦問題の取り上げ方をみると、最大の論点であった「強制性」よりも、それを「普遍的」な女性の「人権」問題と位置づける論調が目立つ。 ただ、これを朴槿恵大統領の属人的な発案とみるのは、恐らく誤っている。
 李明博前大統領は一昨年の竹島上陸直後の光復節解放記念日)の演説で、慰安婦問題を「二国間レベルを超え(た)戦時における女性の人権問題」としたうえで、「人類の普遍的価値」に触れて、「日本の責任ある措置」を促していた。  前にも、韓国外交当局者が「女性の人権と人道主義」などに言及していたから、李発言は大統領周辺での議論の結果、発せられたものであろう。  米国をはじめ国際社会で、日本を追及しようと脾肉(ひにく)の嘆をかこっていた団体は、韓国の外交攻勢にこぞって共鳴した。
 戦時下の行動に平時の価値観から遡及(そきゅう)することへの疑問はよく聞かれるが、そもそも韓国が慰安婦問題で主張する「人権」はどこまで「普遍的」なのか。
≪中朝人権に沈黙の二重基準
 少し繙(ひもと)けば、韓国現代史は四半世紀前まで、強権政治と民主化と「人権」を求める市民運動との闘争の歴史でもあった。 朴槿恵大統領も、カーター米政権の人権外交の格好の標的となったのが亡父の治世下の韓国であったことをよもや忘れてはいまい。 朴正煕政権下で投獄され、全斗煥政権発足直後には、危うく絞首台の露と消えかけた金大中氏が、後に減刑され政治活動を解禁されたのも、救命を求めた人権運動によるところが大きい。
 だが、民主化以降、韓国の「人権」の主張が「普遍的」であったことはない。
 人権では人後に落ちぬと自負した金大中氏は在野時代の1994年、米外交専門誌フォーリン・アフェアーズ上で、シンガポールリー・クアンユー元首相に対して「人権論争」を挑んだことがある。 アジアにおける民主主義の定着に疑義を呈するリー氏に対し、金氏は「人権」の「普遍性」を説いたが、北の人権には言及しなかった。
 さらに、金大中氏は大統領在任中の2000年6月、金正日氏と分断後初の南北首脳会談を実現させたが、北朝鮮の人権を対話の前提にはしなかった。 野党議員時代、光州民主化運動の政府責任を追及した人権弁護士出身の盧武鉉大統領も同様だ。
 ブッシュ前政権下の米国で北朝鮮人権法が成立した後の07年10月に、2度目の南北首脳会談に臨んでも、北の人権を問うことはしなかった。
≪特定国に特定目的で使われ≫
 北朝鮮の人権については、米国と同様、日本でも「北朝鮮人権侵害問題対処法」が成立して久しい。 韓国ではこの種の法案は約8年間、「店晒(たなざら)し」状態にあり、いまだに成立の日の目をみていない。
 法案が北朝鮮との対話を困難にすると気炎を上げ、成立を阻む野党勢力はなお衰えてはいない。 
 付言すれば、1992年の中韓国交正常化から二十余年がたつが、韓国が中国の人権状況の改善を求めたとは寡聞にして知らない。
 誤解を避けるためにいえば、本論の力点は、韓国に「人権」外交を求めることにも、北朝鮮人権法の成立を求めることにもない。
 韓国があらゆる人権問題から、「戦時下における女性」のみを切り取って標榜(ひょうぼう)する「人権」とは、日本という特定の国の過去の追及という特定の政治目的を果たすために、国際社会の支持を求めて掲げられたものにほかならない。 その主張はどこまで「普遍的」か、国際社会に向けて発せられる主張として、果たして「公正」なのかが問われねばならない。

 人権が遍(あまね)く追求されるべき価値であることは言うまでもない。とはいえ、「普遍性」の名の下に民族主義と吻合(ふんごう)し、価値を装飾した外交は、時に国家間の利害の調整を不能に陥れる。
 北朝鮮の人権状況の向上を対話の前提に据えず、また、中国との関係維持のため現下の人権問題を黙過し、「人権」を選別的に主張している韓国こそ、そのことを最も知悉(ちしつ)しているはずである。(くらた ひでや)