・「見せかけ学術論文」が事件になることは少ない。そのぶんこちらのほうはますますはびこる。

・「紀要」論文といえども、外部審査委員の目を通すことにしているものがふえてきたとはいえ、外部審査委員の選定は紀要編集委員の人脈で選ばれる。  だから、学会誌なみの厳しい評価はなされない。
・お手軽系発表媒体のみで業績稼ぎをしている学者を「紀要(器用)貧乏」教員と呼ぶ。 
・このような安易な業績稼ぎの蔓延(まんえん)には業績審査の仕組みの後押しがある。
・研究業績の質を問わない物量主義と形式主義が蔓延している。
・「見せかけ学術論文」が事件になることは少ない。そのぶんこちらのほうはますますはびこる。





〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
業績稼ぎがはびこる大学の劣化
2014.4.1 03:39  □社会学者 関西大学東京センター長・竹内洋

 理化学研究所の小保方研究ユニットリーダーを筆頭筆者とする「STAP細胞」論文の剽窃(ひょうせつ)・捏造(ねつぞう)疑惑がニュースとなっている。
 剽窃自体は研究者の犯罪として昔から今にいたるまでなくなってはいない。 しかし、剽窃論文の多くは、今回のように世界的に注目をあびる論文ではない。 だから、発覚し処分されてもニュース種にならないで、当該大学や学会の問題でおわっていることが多い。
≪「剽窃」を笑う無業績教授≫
 わたしが研究者の剽窃問題を具体的に知ったのは、いまから40年ほど前、かけだしの大学教員だったころである。
 ある大学の非常勤講師として出講していた。  年度末に担当教室教員主催の慰労会があったときのこと。  宴席は、その大学の教授の剽窃事件の話題でもちきりになった。  自著の中に別の学者の論文をそのまま引き写し、自分の論としていたことが発覚したのである。
 宴席の教授たちによる事件の顛末(てんまつ)を聞いていて、ちょっとおかしいなあと思えてきた。
 というのは、剽窃という醜聞を酒の肴(さかな)にしているその場の教授連にみるべき研究業績がなかったからである。  にもかかわらず、論文を書こうとも、自著を上梓(じょうし)しようともしていないように感じられた。  件(くだん)の剽窃教授は、大学教授たるもの著書の一冊くらいあるべきという規範を内面化し、それがプレッシャーになったがゆえの逸脱行為とはいえるからである。
 剽窃教授は論外だが、なにも書かないから事件沙汰を免れているだけの無業績教授が放置されているのもかなりの問題だと思ったのである。
 ところが当時はこの教授連は例外ではなかった。 
 昭和40〜49年の論文執筆調査によれば、教育学担当教員の3分の1(40歳代)、半数弱(50歳代以上)が10年間にわたって1本も論文を発表していなかったからである。
 それから約半世紀経(た)った。 いまや大学教員は無業績教員で過ごすことができない時代になった。  就職時や昇進時はいうまでもなく、事あるごとに研究業績が問われる。  そのせいで、今の大学教員の研究業績を論文数でひと昔前と比べれば数倍になっているだろう。  しかし、その実質はどうか。
≪質より「量」の紀要論文≫
 学術論文とされているもののかなりは大学や研究室が出している「紀要」や調査研究の「報告書」の類に掲載されたものだ。 故谷沢永一教授は、昭和55年に「アホばか間抜け大学紀要」を『諸君!』誌(6月号)に寄稿した。多くの紀要論文に目を通し「見せかけ学術論文」とお粗末さを喝破した。
 1990年代からはじまった大学改革以降、論文「量」を重視する業績主義が浸透した。 その結果、大学や研究室紀要はますますお手軽系発表媒体になり、事態はむしろ悪くなってさえいる。
 なるほど近頃は査読雑誌(論文は数人のレフェリーによって審査され掲載される)に格上げするために、「紀要」論文といえども、外部審査委員の目を通すことにしているものがふえてきた。  とはいえ、外部審査委員の選定は紀要編集委員の人脈で選ばれる。  だから、学会誌なみの厳しい評価はなされない。
 わたし自身、題名につられて、大学紀要に掲載されている論文を読んだことがある。 日本語に翻訳された外国人学者の書物1冊を平板に要約しただけの代物。 羊頭狗肉(ようとうくにく)論文に愕然(がくぜん)としたものである。
 もちろん紀要論文といっても、「玉」の論文はそれこそ「たま」にはあるが、「石」のほうが多い。 この種のお手軽系発表媒体のみで業績稼ぎをしている学者を「紀要(器用)貧乏」教員と呼びたい。このような安易な業績稼ぎの蔓延(まんえん)には業績審査の仕組みの後押しがある。
≪「見せかけ学術論文」の罪≫
 文部科学省の大学設置審議会専門委員になり新設大学・学部などの教員適格審査にかかわり、釈然としなかったことがある。

 審査対象教員の論文の実物は資料に含まれてはいない。論文の題目名と掲載誌だけの情報である。 したがって、審査は、担当科目と論文の題目とが合致しているかどうか、論文がどのくらいあるかの形式審査となる。 有名な学会誌にのった論文ならあらためて読まなくとも信用してよいだろう。 しかし、紀要貧乏教員の論文は、実物を読まないうちは研究業績として認めてよいかどうかわからないのに、である。  このような審査形態が研究業績の質を問わない物量主義と形式主義を蔓延させることにあずかっている。
 剽窃は学問研究の〈積極的冒涜(ぼうとく)〉であるだけに事件とされ、措置が講じられる。しかし、〈消極的冒涜〉である「見せかけ学術論文」が事件になることは少ない。そのぶんこちらのほうはますますはびこる。
 このようにみてくると、冒頭にふれた、その昔の無業績教授が別様にもみえてくる。 当時、よく言われていた「論文はやたらに書くべきものではない」という学問への畏怖ゆえの無業績だったかもしれないのである。(たけうち よう)