・30年余の間、長々と頬被り、往生際が悪い。 朝日は往生際の悪さなど何も考えない。 恥ずかしさなど微塵も無い。

・30年余の間、長々と頬被り、往生際が悪い。 朝日は往生際の悪さなど何も考えない。 恥ずかしさなど微塵も無い。
・見込みが違ったときどうするか。頬被(かむ)りし続けるのも一法、初期見通しの誤りを認めるのも一法。
・過ちは多かれ少なかれ渋々認められるものだ。朝日ではその渋々がことのほかひどい。それは同紙の体質だ!

・6月15日付の1面でもひどい誤報だ!  集団的自衛権と国連集団安全保障の原理的区別が解らず混同している派遣記者はベルリンであちこち取材し、両原理を混同した記事を送稿、掲載された。本社はチェックなし?






〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
朝日に「体質改善」は望めるのか 
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛  2014.8.21 03:19 [正論]
≪長々と頬被り、往生際悪い≫
 「清水の舞台から飛び降りる」という言葉がある。 朝日新聞は8月5、6の両日、大特集「慰安婦問題を考える」でそれをやったつもりらしい。 が、往生際の悪さばかりが目立つ。 飛び降りるなら飛び降りるで潔くあるべきだが、朝日は初期報道段階についてはできれば他紙も道連れにできまいかと計算したらしい。  が、これは誤算で、他紙は冷淡そのものである。
 得てして物事の発端は真相の曖昧なことが多い。  速報性重視の新聞にとり辛いところだ。 で、ある見込みの下、初報がつくられる。 
 見込みが違ったときどうするか。頬被(かむ)りし続けるのも一法、初期見通しの誤りを認めるのも一法。朝日は30年余の間、前者を取った。 初めは面子(めんつ)からだったろう。結果、精神的息詰まりに陥った。
 そこで今回、妙なコーヒー濾過(ろか)法に走った。濾過紙から抽出する成分は吉田清治慰安婦強制連行説だけにして、女子挺身隊と慰安婦の混同さえも単なる「誤用」としてケリを付けたいらしい。
 ただ世の中、都合良く特定成分だけ抽出してくれるこし紙なぞない。
 5日付の記事は5項目にわたり「読者のみなさまへ」と題する弁明を掲げた。 とすれば、大特集を読んだ「読者のみなさま」の反応を知りたいのが人情である。 それを知る最良の近道は同紙の投書欄「声」を読むことだろう。 が、何としたことか、待てど暮らせどいまだに読者の声が掲載されない。
 あれだけの大特集に投書が殺到しないはずがない。 特に朝日の場合、社説、社論と「声」欄とは常日頃、見事に共鳴、共振する。
 「声」は頼もしき友軍なのだ。が、今回に限りこの関係は崩れたらしい。何たるご都合主義か。
 朝日に直言する。「声」隠蔽作戦を放棄なさい。失望し怒れる読者の反応を投書欄に登場させなさい。潔くなりなさい。でないと、別の息詰まりを抱え込みますよ。
 過ちを認めたがる人間なんてこの世にいない。過ちは多かれ少なかれ渋々認められるものだ。朝日ではその渋々がことのほかひどい。それは同紙の体質である。私自身の経験からそう断言する。

≪縮刷版のみで誤り訂正とは≫
 朝日では社説と「声」とが同じページに載る。1984年11月13日、その第5面に4段組みの妙な囲み記事が登場した。見出しは「読者と朝日新聞 社説の縮刷版直し 事実の誤りは訂正が筋」。読者からの電話質問(これはウソ!!)に論説主幹が答えたもので、私の名前が出てくる。どうして?
 冷戦たけなわの当時、米ソ中距離核問題が内外で激論を呼んだ。
 朝日社説は米国批判の社論に則(のっと)り、西欧配備の米中距離核基数で誤報をやった。 それを私がある雑誌論文で指摘し批判していた。
 朝日の誤報社説は7カ月以上も前のことだった。この社説は当日、最終版まで変更されなかった。 なのに、後日に出た縮刷版では配備中距離核基数が書き換えられた。 私はこの縮刷版変造を糾弾したわけだ。
 朝日論説主幹の弁解は往生際の悪さの見本だった。
 いわく、「このあやまりは、外部からの指摘を受けるまでもなく、掲載当日、論説委員室内部でも数人が気づき、直ちに縮刷版直しの手続きがとられました」(傍点筆者)。 この弁解が真実から程遠いことを私はある事情から知っている。そのことには触れない。
 この一件や他の事例から、私は朝日の誤報訂正姿勢に潔さが欠けることに呆(あき)れ続けてきた。 今回の慰安婦問題はその金字塔だろう。だが、それで打ち止めではない。

≪OBの心ある批判に傾聴を≫
 ごく最近、新しい大誤報があり、今日まで2カ月以上放置されている。 6月15日付の1面最大の記事がそれだ。「平和貢献のはずが戦場だった」「後方支援 独軍55人死亡」「アフガン戦争」「集団的自衛権 海外では」と4つも見出しの付いたこの大型記事は同紙記者がわざわざベルリンまで出かけて送ってきたものだが、これが哀れを催すほどひどい代物だ。
 昨今、集団的自衛権と国連集団安全保障の原理的区別がよく議論される。 朝日もその点で人後に落ちない。  ところが、派遣された記者はベルリンであちこち取材し、両原理を混同した記事を送稿、掲載された。本社はチェックなし?
 この誤報の詳細は月刊「正論」9月号で論じたので、ここでは割愛する。 要するに、この一件では「親(本社)の心、子(派遣記者)知らず」と言うべきか、「子が子なら親も親」と評すべきかだが、朝日がこの種の誤報をやるとき、必ず背後に誤った使命感から出たつんのめりがある。 それは同紙の体質だ。困ったものである。
 朝日人が全部、そういう体質の持ち主だとは思えない。「縮刷版社説変造」事件で私はそのことを知った。
 いま、慰安婦問題で元朝日人が古巣を批判している。 朝日の顕職に就いたOBで今日の同紙の社論に異議を唱えている人々もいる。
 他紙でも類似例がなくはないが、比較にならない。  私のような朝日の「敵」はともかく、かつての同僚の心ある批判に耳を傾ける度量がこの新聞にはあるか?(させ まさもり)