・不道徳と秩序無視と我が物顔の「人」を、むやみに日本に入れて住まわせてはならない。

・沖縄に、「チャイナタウン」建設の計画が持ち上がっている。「チャイナタウン」とは「特区」=「租界」である。チャイナの特区=租界は阻止しなければならない。
・不道徳と秩序無視と我が物顔の「人」を、むやみに日本に入れて住まわせてはならない。
・マスコミは、蚊や蜘蛛の何万倍以上にうようよと動き回って害毒をまき散らす「人」の流入と増大と居座りをもっと報道すべきだ!
硫黄島と同じように、沖縄は英霊の島であり全島慰霊の島である。









〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
「沖縄から見た」 西村眞悟   2014.09.23

 スコットランド独立か否かの住民投票の結果は、十九日に沖縄の那覇で知った。独立否定の結果が出てからは、潮が引いたように何事もなく、マスコミ報道もなくなった。
  前回、民主主義=住民投票=民意、だと思っていたら、えらいことになる、と書いた。
 ヒットラースターリンも、さらに、現在の中華人民共和国朝鮮民主主義人民共和国の独裁者達も、「民意」に基づいていることを忘れてはならない。 ボーッとしておったら、我が国内に、住民の「民意に基づいた特別区」を造られる。
 それ故、仙台市長として、杜の都仙台に、「チャイナタウン」が建設されるのを断固阻止した、梅原克彦氏の存在を忘れてはならない。
  梅原氏は、通産省出身で、十年前に、私たち拉致議連横田めぐみさんのご両親らとともにアメリカのワシントンDCを訪れて、アメリカの政府や議会筋に、北朝鮮による日本人拉致の国家的テロを訴えたとき、駐米公使として献身的に働いてくれた。
  今、沖縄に、「チャイナタウン」建設の計画が持ち上がっている。「チャイナタウン」とは「特区」=「租界」である。チャイナの特区=租界は阻止しなければならない。
 スコットランド報道と同様に急に少なくなったのが、デング熱の報道である。
 このデング熱を媒介するのは、かつては日本に居なかった蚊であるが、こいつが日本に入って棲息することを阻止することは、もはやできないだろう。
 かつて、関西を中心に南方の毒をもった「背赤後家蜘蛛」という妙な名前の小さい蜘蛛が大ニュースになった。 しかし、今も「背赤後家蜘蛛」は「うようよ」いるのにニュースにはならない。しゃあないんだろう。
 デング熱媒介の小さな蚊も、背赤後家蜘蛛と同じようにニュース価値がなくなったのだろうか。
 しかしながら、蚊や蜘蛛は仕方ないとしても、不道徳と秩序無視と我が物顔の「人」を、むやみに日本に入れて住まわせてはならない。
 マスコミは、蚊や蜘蛛を報道するならば、蚊や蜘蛛の何万倍以上にうようよと動き回って害毒をまき散らす「人」の流入と増大と居座りをもっと報道すべきであろう。
 さて、沖縄であるが、この大地には、日米両軍兵士と民間人の合計二十万人以上の血が流れしみ込んでいる。
  硫黄島と同じように、沖縄は英霊の島であり全島慰霊の島である。
 この度、この慰霊の島で合宿研修をしている仲間の皆さんの懇親会出席のために沖縄に飛んだ。 そして、翌日は、一人で、次の糸満を中心とした激戦地を廻って敬礼し合掌した。
 サイモン・バックナー中将戦死の地・・・糸満市真栄里
  昭和二十年六月十八日、午後一時十五分、この地で上陸軍十八万二千の指揮官であったサイモン・バックナー中将が、我が軍の十五糎りゅうだん砲の放った砲弾の直撃を受けて戦死した。
  砲を放ったのは野戦重砲兵第一聯隊中隊長石原正一郎大尉。 彼は二キロほど先に、ジープが止まりアメリカ軍の高級軍人が降りるのを双眼鏡で認め、そこに九十七式十五糎りゅうだん砲を撃ち込むことを命じた。
 その時の砲は、戦後アメリカ軍に接収されたが、現在は、靖国神社に展示されている。 この敵中将の戦死の丘に敬礼した。
  白梅の塔・・・糸満市真栄里、バックナー中将戦死の地の近く昭和二十年六月二十一日、二十二日、従軍看護婦として戦地に留まって負傷兵の看病に尽くした沖縄県立第二高等女学校の生徒はこの地の洞窟で自決した。 ここに合掌した。
  砲兵山吹之塔・・・糸満市真壁

 この地で戦死した野戦重砲兵第一聯隊七百三十九名の慰霊碑。この塔の斜め前に生き残った中隊長の石原正一郎大尉が、平成八年六月二十二日、戦没者の名を刻んだプレートを建てている。敬礼した。
  轟き壕・・・糸満市真壁

入り口は狭いが、地下は大きな空洞である。ここに真壁の住民千名近くが戦禍を避けて入り、生き残ることができた。
 なお、司令官サイモン・バックナー中将は、戦死直前に、第三十二軍司令官牛島満中将に宛てて、日本軍の驚くべき勇戦敢闘に敬意を表した上で、将来有為な部下青年の命を救うために投降されたしとの手紙を出している。
 しかし、その投降勧告はバックナー中将戦死により失効する。
 そして、バックナー中将戦死の五日後の六月二十三日、日本軍第三十二軍司令官牛島満中将は、自決する。 両将軍の戦死の地は三キロほどしか離れていない。
  両軍の最高指揮官である中将がともに戦死する戦闘があったのは、世界戦史のなかでも沖縄戦だけであろう。 牛島満中将とサイモン・バックナー中将は、ともに一八八七年(明治二十年)の生まれである。
 また、アメリカ陸軍の創設から現在に至る歴史の中で、野戦で中将が戦死するのは沖縄戦だけである。
  本日は、これから札幌に飛び、台湾の元総統で日本の導師である李登輝先生にお会いしてお話を聞き夕食をともにさせていただく。