・わたしたちは日本のアジアへの貢献を正面から再評価するべき時を迎えている。 自虐史観とは永遠に訣別しなければならない。

大東亜戦争の目的はアジアの植民地の桎梏から解放することにあった。
・あの戦争は世界の人々の幸せを踏みにじり、とりわけアジア・アフリカ諸国を蹂躙し、有色人種を奴隷のごとく扱って搾取してきた白人国家への日本の挑戦であった。
アジア諸国華夷秩序にしたがう朝鮮半島の国をのぞいて、おしなべて日本に感謝しているのが現実。
・フィリピン独立運動を日本が助けていたという歴史的事実がある。
日露戦争以前から対米独立運動をフィリピンで展開していたリカルテ将軍は何回も捕らえられるが、香港へ亡命し、1903年に日露戦争の戦雲が広がるや密かにフィリピンに帰国して独立本部を設営した。
・米軍の急襲を受け、ふたたび捕らえられが、またも香港へ亡命し、その後、1915年に日本へ亡命するのである。
ジョイス・C・レプラはアジア各地に日本軍が残した『戦闘精神、自助、規律というものを教え込んだ』ことを強調し、『民族主義を抱いていた一つの世代の指導層全体に厳格なる軍事訓練を施し、規律とは何かを教えた』。
・「日本の戦争中の教育の成果は、この例が示すように軍事面だけではなく、政治面にも大きな遺産を残した」
・わたしたちは日本のアジアへの貢献を正面から再評価するべき時を迎えている。 自虐史観とは永遠に訣別しなければならない。









 

〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
書評『イズムから見た日本の戦争』    
宮崎正弘   2015.01.05
■日本のおかげで独立できたとアジア諸国は感謝した。 誰が大東亜戦争のただしい解釈・評価を悪意で捻じ曲げたのか
<平間洋一『イズムから見た日本の戦争』(錦正社)>
  一般参賀に駆けつけると最初のお立ちに間に合った。 夥しい国民が日本の国旗を振って『天皇陛下万歳』を唱えている。  この静謐なる激情、すがすがしい風景をみたいためにも、評者は毎年参賀を欠かさないのかも知れない。
  皇居の清流のような空気と静謐の空間のなかに裂帛の精神が溢れている。 天皇陛下のお言葉は「我が国と世界の人々の安寧と幸せを願い」・・。
 そうだ。
 あの戦争は世界の人々の幸せを踏みにじり、とりわけアジア・アフリカ諸国を蹂躙し、有色人種を奴隷のごとく扱って搾取してきた白人国家への日本の挑戦であった。
 大東亜戦争の目的はアジアの植民地の桎梏から解放することにあった。 この崇高な歴史的意義が、じつにじつに戦後七十年も忘れられてきたのだ。
 アジア諸国華夷秩序にしたがう朝鮮半島の国をのぞいて、おしなべて日本に感謝しているのが現実、ことし予定されている「安部談話」は正しい歴史認識に立脚して、凛としてものであってほしい。
 さて本書の副題は「モンロー主義共産主義アジア主義」とあって、これら三つのイズムが人種偏見と折り重なって、日清戦争以来壱世紀にわたった日本の戦争を分析、再評価する。
 ともかく浩瀚である(大判で494ページもある)。
 というわけで参賀から帰宅し、襟をただして本書に取り組んだ。著者から贈呈されてから壱ヶ月半もツンドク状態にあったのも、浩瀚ゆえに時間が取れなかったからである。
 しかし読み出すと止まらない。殆ど一昼夜で読み終えて、感動の余韻のなかに拙評を書き出す。
 だが、何をどう評価するかと言っても、本書は時間的空間が宏大であり、原稿用紙にして20枚ほどの紙幅がないと十分に論ずる能わざるといった、思想的な歴史書である。
 氏には『日露戦争が変えた世界史』などの名作があり、すでにその業績は斯界で高く評価されている。
本稿ではしたがっていくつかのポイントに的を絞ることにしたい。
 というのもインドネシア独立戦争も、マレーも、ベトナムも残留した日本兵が指導したし、インドの独立戦争はともに闘った事実は小誌の読者なら殆ど知っているだろうと推測されるから、これらの項目は割愛する。
意外だったのは(というより小生が知らなかっただけかも知れないが)フィリピン独立運動を日本が助けていたという歴史的事実だった。
 ともすれば戦後のフィリピンは米国の示唆、いや使そうされて反日感情に燃え、日本にたいそうな悪意を投げた歴史があり、モンテンルパの悲劇を知っている。
 マルコス政権の時代までフィリピンは米国の傀儡と言ってもよく(いやマルコス転覆劇とて米国が仕組んだ)、だからフィリピンにおける独立運動史は等閑され続けてきたからかも知れない。
  近年、この方面では高山正之氏らの著作によって、真実が明らかにされつつあるものの、まだまだ日本人史家も自虐史観に基づいて日本がフィリピンを「侵略した」という解釈が横行している。
  真実は異なる。

日露戦争以前から対米独立運動をフィリピンで展開していたリカルテ将軍は何回も捕らえられるが、香港へ亡命し、1903年に日露戦争の戦雲が広がるや密かにフィリピンに帰国して独立本部を設営した。米軍の急襲を受け、ふたたび捕らえられが、またも香港へ亡命し、その後、1915年に日本へ亡命するのである。
犬養毅後藤新平らの援助を受け、横浜でスペイン語の教師などをしていた(中略)。その後、41年12月19日に日本軍とともにマニラに」凱旋した。26年ぶりの帰国だったのだ。
 しかし日本軍はこれらの親日派を重宝せずにいたが、ゲリラ活動が活発化したため、「43年には独立を認めることを宣言し、五月には東条英機首相がフィリピンを訪れ、ルネタ公園の歓迎式典で独立を公約し、その五ヶ月後の10月14日の独立式典ではリカルテ、アギナルド両将軍の手でフィリピン国旗が掲げられた」(307p)
  本書によればジョイス・C・レプラはアジア各地に日本軍が残した『戦闘精神、自助、規律というものを教え込んだ』ことを強調し、『民族主義を抱いていた一つの世代の指導層全体に厳格なる軍事訓練を施し、規律とは何かを教えた』。
「この経験があったからこそ、戦後、アジア各地に戻ってきた植民地主義諸国と独立戦争を闘うことができたのである」とした(ジョイス・レプラ『チャンドラボーズと日本』、原書房)。

本書で得た重要な語彙に「ピンコ」がある。
泉ピン子ではない。国際政治学用語である。
 PINKOとは、『左翼的意見をもった人』、『政治的にピンクな人』『穏健な共産主義者』などと定義されている。
 平間氏の注釈によれば、最初にPINKOが登場したのは1926年の『TIME』で、爾来、左翼陣営を批判するときに軽蔑を籠めてPINKO PRESSとか、表現するという(評者(宮崎正弘)がよくワシントンへ通って多くのシンクタンクの研究員や議会関係者と討論した時代、あのレーガンの時代ですら共和党関係者から一度のこの「PINKO」という比喩的な表現を聞いたことがなかった、代わりに左翼を揶揄するときは『LIBERAL―PINKY―FOOL』だったが)

 いまひとつ重要なことは戦後アジアで継続された日本の教えである。
 アセアンの原型は、日本が教え込んだ留学生達が、その後、祖国で独立を勝ち取り、政治家となって「東南アジアの共存共栄のアセアンの結成向けて努力を結集した」から成立した。
シンガポールとマレーシアとインドネシアの同期生(日本がほどこした南方特別留学生)たちがジャカルタで会合し、五ヶ国の共同体を結成しようと提案した」。
 インドネシアからスハルト政権の中枢にいたアリ・ムルト、マレーからはラザク副首相ら、ジャカルタではスハルト邸にあつまり、クアラルンプールではラザク邸にあつまり、会合は重ねられ、フィリピンのラウレル・アシス(大統領特別顧問、元陸士)、タイからはコーマン外務大臣
 そして、「67年8月5日にはバンコクでマレーシア、インドネシア、フィリピン、シンガポール、タイの五カ国の外相によってバンコック宣言が発表され、アセアン結成が世界に発表された」のである。
 かくして「日本の戦争中の教育の成果は、この例が示すように軍事面だけではなく、政治面にも大きな遺産を残した」(321p)

 わたしたちは日本のアジアへの貢献を正面から再評価するべき時を迎えており、自虐史観とは永遠に訣別しなければならないことを本書を通じて改めて思った。