大東亜会議とAA会議は、日本の理想を実現したものだった!

・「第1回バンドン会議重光葵(まもる)と、わたしが苦労した大東亜会議につぐ、有色民族の2回目の歴史的な会議となるものだ」と加荑俊一は語った。
・大東亜会議は昭和18(1943)年に、東京にビルマ、フィリピン、インド、タイ、満州国、中国(南京政府)の首脳が、一堂に会して催された、人類はじめての有色民族のサミットだった。
・日本は開戦の御詔勅にあるように、「自存自衛」のために戦っていた。しかし、戦争目的が自衛のためというと消極的であるから、大東亜会議は日本の役割を歴史に残すために、アジアの諸民族を解放することを、宣明することを諮ったものだった。
・第1回AA会議では、新興アジア・アフリカ諸国の代表たちが日本代表団の席にくると、日本が帝国主義勢力をアジアから駆逐して、民族解放をもたらしたことに対して、つぎつぎと感謝の言葉を述べた。
・昭和31(1956)年3月8日に、重光葵外相が参院予算委員会で、「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と述べた。







〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
日本の理想を実現した大東亜会議とAA会議   
加荑英明  2015.05.21
 4月に、インドネシアジャカルタにおいて、アジア・アフリカ会議60周年記念首脳会議が催された。 バンドン会議、あるいはAA会議とも呼ばれた。
  安倍首相が日本が引き続きアジアにおける平和の構築と、アジア・アフリカの成長に貢献してゆくと、演説したが、堂々としていた。
  会議には、アジア・アフリカから約100の国と、地域の首脳が参集した。
  第1回バンドン会議は昭和30(1955)年に、29ヶ国の代表が参加して開催された。 日本がサンフランシスコ講和条約が発効して、独立を回復してから、はじめて出席した国際会議となった。
 この時、私の父・俊一(としかず)は政府次席代表として、会議に出席した。
  私は高校3年生だった。  父がインドネシアへ出発する前に、私に「今度の会議は重光葵(まもる)と、わたしが苦労した大東亜会議につぐ、有色民族の2回目の歴史的な会議となるものだ」と、感慨深げに語った。
 50年前のAA会議に当たっても、10年前の50周年記念会議、今回の60周年会議の時にも、日本のマスコミが大東亜会議を引き合いにだすことが、まったく無かった。残念なことである。
  大東亜会議は昭和18(1943)年に、東京にビルマ、フィリピン、インド、タイ、満州国、中国(南京政府)の首脳が、一堂に会して催された、人類はじめての有色民族のサミットだった。
  当時、東條内閣の外相だった重光葵と、政務秘書官として側近だった父が、東京・麹町の重光私邸で大東亜会議の構想を幾晩も徹夜して練って、首相に提案したものだった。
  日本は開戦の御詔勅にあるように、「自存自衛」のために戦っていた。しかし、戦争目的が自衛のためというと消極的であるから、大東亜会議は日本の役割を歴史に残すために、アジアの諸民族を解放することを、宣明することを諮ったものだった。
  重光は敗戦後、A級戦犯として実刑判決を受け、日本が独立を回復した後に釈放されたが、鳩山内閣がAA会議の前年に成立して、外相に復帰した。
  父は出発する前に、「重光に晴れ舞台を踏ませたかったのに、来れないのは何とも残念だ」といった。  重光外相が首席代表となるところだったが、国会会期中だったために、首相と親しい実業家の高碕達之助経済審議庁長官が、起用された。
  日本はインドネシアを敗戦の年の9月に独立させることを、決定していた。
 インドネシアは日本が連合国に降伏した直後の8月17日に、独立を宣言した。
  第1回AA会議は、大戦が終結してからまだ10年しかたっていなかったために、反植民地感情が奔騰するなかで開催された。
 父もその熱気に、あらためて驚かされた。
  会議が始まると、新興アジア・アフリカ諸国の代表たちが日本代表団の席にくると、日本が帝国主義勢力をアジアから駆逐して、民族解放をもたらしたことに対して、つぎつぎと感謝の言葉を述べた。
  昭和31(1956)年3月8日に、重光葵外相が参院予算委員会で、「太平洋戦争によって、日本は東南アジア諸国の独立に貢献した」と述べた。
 いま、岸田外相が同じ発言を行うことが、できるだろうか。
 だが、日本が先の大戦を戦ったことによって、人種平等の世界が招き寄せられたのだった。
  昭和天皇は敗戦の翌年に、側近者に対して先の戦争をもたらした原因について、つぎのように述べられている。
「この原因を尋ねれば、遠く第1次世界大戦後の平和条約の内容に伏在してゐる。(大正8年のパリ講和会議において)日本の主張した人種平等案は列国の容認する処(ところ)とならず、黄白の差別感は依然残存し加(カリフォルニア)州移民拒否の如きは、日本国民を憤慨させるに充分なものであった。
 かゝる国民的憤慨を背景として、一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業(もの)ではない。(『昭和天皇独白録』)
  平成12(2000)年に、拓殖大学が創立100周年を祝った。 拓殖大学は明治33(1900)年に、海外で開拓に当たる人材を育成するために、創立された。
今上天皇が記念式典に、行幸された。
 その時のお言葉のなかで、「校歌には青年の海外雄飛の志とともに、『人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし』と、うたわれています。当時、多くの学生が、この思いを胸に未知の世界へと、大学を後にしたことと、思われます」と、述べられた。
  父・天皇の想いを、語られたにちがいない。
 大東亜会議とAA会議は、日本の理想を実現したものだった。