・失敗した2つのデザインには、日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さと無国籍性が露呈している。 招致時の五輪デザインには日本の魂が生きていた!

聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。
・もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。
・2つの憲法はその2つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鑑(かがみ)とし、それを契機にわが国が独自性を発揮した。
・日本は鑑を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機をも見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない。
・教養課程の一般教育を廃止し、今度、人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として到底、看過できない!
・言語は教養の鍵である。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。
・言語は人間存在そのものだ! 言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言葉の能力と科学の能力は排斥し合うものではない!
・五輪の新国立競技場とエンブレムの2つ続いた白紙撤回は、不安を国民に与えている。
・失敗した2つのデザインには、日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さと無国籍性が露呈している。 招致時の五輪デザインには日本の魂が生きていた!










〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
2015.9.10 05:01更新  【正論】
言語を磨く文学部を重視せよ 評論家・西尾幹二

 自国の歴史を漢字漢文で綴(つづ)っていた朝鮮半島の人々が戦後、漢字を捨て、学校教育の現場からも漢字を追放したと聞く。住人は自国の歴史が漢字の原文で読めないわけだ。私はそのことが文化的に致命傷だと憂慮しているが、それなら今の日本人は自国の歴史の原文を簡単に読めるだろうか。漢文も古文も十分に教育されていない今の日本人も、同様に歴史から見放されていないか。
≪未来危うくする文科省の通知≫
 学者の概説を通じて間接的に自国の歴史を知ってはいるが、国民の多くがもっと原典に容易に近づける教育がなされていたなら、現在のような「国難」に歴史は黙って的確な答えを与えてくれる。
 聖徳太子の十七条憲法と明治における大日本帝国憲法を持つわが国が3番目の憲法を作ることがどうしてもできない。もたもたして簡単にいかないのは何も政治的な理由だけによるのではない。

 古代と近代に日本列島は2つの巨大文明に襲われた。2つの憲法はその2つの文明、古代中国文明と近代西洋文明を鑑(かがみ)とし、それに寄り添わせたのではなく、それを契機にわが国が独自性を発揮したのである。しかしいずれにせよ大文明の鑑がなければ生まれなかった。今の日本の困難は自分の外にいかなる鑑も見いだせないことにある。米国は臨時に鑑の役を果たしたが、その期限は尽きた。
 はっきり見つめておきたいが、今のわが国は鑑を自らの歴史の中に、基軸を自らの過去の中に置く以外に、新しい憲法をつくるどんな精神上の動機をも見いだすことはできない。もはや外の文明は活路を開く頼りにはならない。
 そう思ったとき、自国の言語と歴史への研鑽(けんさん)、とりわけ教育の現場でのその錬磨が何にもまして民族の生存にかかわる重大事であることは、否応(いやおう)なく認識されるはずである。ところが現実はどうなっているのか。
 文部科学省は6月8日、「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通知を各国立大学長などに出した。
 そこに「人文社会科学系学部・大学院については(中略)組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする」とあり、現にその方向の改廃が着手されていると聞く。
 先に教養課程の一般教育を廃止し、今度リベラルアーツの中心である人文社会科学系の学問を縮小する文科省の方針は、人間を平板化し、一国の未来を危うくする由々しき事態として座視しがたい。
≪国家の運命を動かした文学者≫
 文学部は哲学・史学・文学を中心に据え、西欧の大学が神学を主軸とするように(ドイツでは今でも「哲学部」という)、言語教育を基本に置く。 文学部が昔は各大学の精神のいわば扇の要だった。
 言語は教養の鍵である。何かの情報を伝達すればそれでよいというものではない。言語教育を実用面でのみ考えることは、人間を次第に非人間化し、野蛮に近づけることである。
 言語は人間存在そのものなのである。言語教育を少なくして、理工系の能力を開発する方に時間を回すべきだというのは「大学とは何か?」を考えていないに等しい。言葉の能力と科学の能力は排斥し合うものではない。
 殊にわが国では政治危機に当たって先導的役割を果たしてきたのは文学者だった。ベルリンの壁を越える逃亡者の実態を最初に報告したのは竹山道雄(独文学)であり、仏紙から北朝鮮の核開発を掴(つか)み、取り上げたのは村松剛(仏文学)だった。
 その他、小林秀雄(仏文学)、田中美知太郎(西洋古典学)、福田恆存(英文学)、江藤淳(英文学)など、国家の運命を動かす重大な言葉を残した危機の思想家が、みな文学者だということは偶然だろうか。
≪日本の魂が抜けたデザイン≫
 本欄の執筆者の渡部昇一(英語学)、小堀桂一郎(独文学)、長谷川三千子(哲学)各氏もこの流れにある。言葉の学問に携わる人間は右顧左眄(うこさべん)せず、時局を論じても人間存在そのものの内部から声を発している。
 人文系学問と危機の思想の関係は戦前においても同様で、大川周明(印度哲学)、平泉澄国史)、山田孝雄国語学)、和辻哲郎倫理学)、仲小路彰(西洋哲学)などを挙げれば、文科省の今回の「通知」が将来、いかにわが国の知性を凡庸化せしめ、自らの歴史の内部からの自己決定権を奪う、無気力な平板化への屈服をもたらすことが予想される。

 今のことと直接関係はないが、オリンピックの新国立競技場とエンブレムの2つ続いた白紙撤回は、組織運営問題以上の不安を国民に与えている。
 基本には2つのデザインに共通する無国籍性がある。北京オリンピックのエンブレムが印璽をデザインして民族性を自然に出しているのに、今度の失敗した2つのデザインには一目見ても今の日本の魂の抜けた、抽象的な空虚さが露呈している。
 大切なのは言語である。自国の歴史を読めなくしている文明ではデザインにおいても訴える言葉が欠けている。(にしお かんじ)