・ケネディの「私はベルリン市民」の一句が西ベルリンの空気を変えた!政治家は文言だ!

陸の孤島」が嫌われた。
・米国と西独でドイツ再統一必要論の新芽が出てくる。 レーガン大統領とコール首相だ。
レーガン大統領とコール首相。この両人なかりせば89年11月9日のタイミングでの「壁」開放は期待すべくもなかっただろう。
ケネディの「私はベルリン市民」の一句が西ベルリンの空気を変えた!
 人口減は止(や)み、歴史の歯車の回転方向が変わった。行き着くところ冷戦は終わった。



〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
ケネディ演説に見た歴史の「妙」
防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛  2013.6.26 03:15 [正論]
≪「私はベルリン市民」目撃≫
 50年前の今日、西ベルリン・シェーネべルク市役所前広場でケネディ米大統領の演説を聴いた。 世に言う「私はベルリン市民である(イッヒ・ビン・アイン・ベルリーナー)」だ。 ベルリン自由大学に留学中の私は早起きしてカメラ持参で駆けつけ、最前列に陣取った。 記録によると、集まった聴衆は30万。 多くの日本人特派員も西ベルリン入りしたが、殆(ほとん)どが故人となった。 直接の現地体験を語れるのは、私だけかもしれない。
 この19日、オバマ米大統領メルケル独首相の招きでベルリン入りし、ケネディ演説に言及するスピーチを行った。 が、50年前のバラク君は1歳児。 アンゲラ嬢は8歳児。 直接にケネディ演説を聴いてはいない。 このところ多くの報道機関が往時の米大統領演説を称(たた)えるが、どことなくおかしい。 背景をよく理解していないようだ。
 ケネディ大統領は大歓迎され、演説の一句ごとに大拍手と大歓声が湧いた。が、この大歓声は曲者(くせもの)だった。 なぜか。 その2年前の1961年の8月、「ベルリンの壁」が出現する。  農民や手工業者が強制的な社会主義化を嫌って西へ流出するので、東独の出血多量死を恐れたフルシチョフソ連政権は止血のため「壁」構築を命じた。  いわゆる「反ファシズムの防壁」だ。  これで東独政権は息を吹き返し、それなりの安定化の道を歩む。となると、問題は西だ。
 「壁」構築は全ベルリンに関する米英仏ソ4国合意に違反していた。 西ベルリンや西独では憤激の声が高まり、「壁」警備に当たる東独人民軍−ソ連軍は前面には出なかった−を西側3国軍が蹴散らせとの主張まで登場した。
 早い話、米国大統領はなぜ西ベルリンに来ないのだ−。が、ワシントンはジョンソン副大統領を送るにとどめた。 ケネディ政権の関心はベルリン問題でソ連と事を構えることにはなく、米ソ共存、緊張緩和の模索にあった。  この傾向は62年秋のキューバ危機の後、一段と鮮明化した。で、西独の反応やいかに。
≪「陸の孤島」の不安静めに≫
 二様の反応があった。アデナウアー西独首相はドイツ再統一問題に冷淡だったケネディ米政権に不信を抱き、ドゴール仏大統領に急傾斜。 米国だけが西ではないぞ、の意思表示だ。 他方、当時西ベルリン市長だったブラントはキューバ危機と「壁」の出現の影響で東西共存、しかも両独共存を再統一に優先する方向へ舵(かじ)を切る。  後に西独首相となった彼は、「一民族の二国家」論でそれを実行、欧州の緊張緩和への貢献大なりとしてノーベル平和賞に輝いた。
 「壁」の出現で旗色が悪くなったのは西ベルリンだった。 西独への転住者が増え人口減が始まる。 日本人留学生も西ベルリンを離れる。「陸の孤島」が嫌われたのだ。 そこでようやくケネディ大統領が西ベルリンを訪問する。が、ドイツ再統一は米国外交の優先的政策課題ではないとは絶対に言えない。 そこで名文句「私はベルリン市民である」が案出された。 西ベルリン市民はだまされたわけではない。 再統一が難作業なのは分かっている。 問題は米国が西ベルリンを去るかだ。が、眼前の米大統領が「ベルリン市民だ」と言った。これで大丈夫。万歳。
 因果は巡る。 安定し始めた東独ではホーネッカー書記長が調子に乗り、「壁」で囲んだ自国民に一定条件下で西独の親戚を訪ねていいよと「善政」を施す。 70年代後半のことだ。 東独国民は東側世界では自分たちの生活水準が最も高いとまあまあ満足していたのに、西の親戚を見て仰天。 このひどい生活格差は何だと不満を隠さなくなる。 すると、あら不思議、程なく米国と西独でドイツ再統一必要論の新芽が出てくる。 レーガン大統領とコール首相だ。
≪「西」の空気変わり壁崩壊…≫
 西独では好戦屋呼ばわりされたレーガン大統領は87年6月、ベルリン・ブランデンブルク門前の「壁」に向かい、「この門を開け、壁を取り壊せ」とゴルバチョフ書記長に呼びかけた。 コール首相は早くから「アデナウアーの孫」を自称、82年10月に政権に就くと、誰に何と言われようと再統一不断念の旗を降ろさなかった。 この両人なかりせば89年11月9日のタイミングでの「壁」開放は期待すべくもなかっただろう。
 「壁」開放、ドイツ再統一、冷戦終結はいわば三位一体だ。
 ケネディ演説はその一つだに直接には意図していなかった。 むしろ「壁」黙認、再統一忘却、共存による低烈度冷戦の継続が狙いだった。 
 ただ、「私はベルリン市民」の一句が西ベルリンの空気を変えた。人口減は止(や)み、歴史の歯車の回転方向が変わった。行き着くところ冷戦は終わった。歴史の「妙」に脱帽するばかりである。(させ まさもり)