・中国共産党の政権は、「謀略(ウソ)と銃口」から生まれ、「謀略と歴史の捏造」によって維持されている。

・日華事変は、何故、戦争ではなく事変なのか? 日本軍が戦う相手が、国家ではなく、国民党の軍隊、共産党の軍隊そして軍閥や共産パルチザンや匪賊だったから事変と言った。
・大陸の情況は、今のイラクと同様の内乱状態だった。
・七十七年前、支那の混乱情況から、戦争を起こし、戦争から共産革命に持ち込む戦略を実践した組織が2つあった。スターリン指導のコミンテルンと、毛沢東指導の中国共産党である。
コミンテルン毛沢東中国共産党も、その「戦争」の相手を日本に絞った。引き金が、廬溝橋事件だった。
・昭和十二年七月七日夜十時四十分ころ、廬溝橋北側の左岸荒蕪地での演習を終えた日本軍の中隊に対し、突如数発の銃弾が撃ち込まれた。
中隊長や小隊長等は、堤防と廬溝橋城壁の中の中国軍との間で懐中電灯による点滅信号が交わされているのを目撃した。
・再び、十数発の銃弾が撃ち込まれたので、部隊は「伏せ」の姿勢で避けた。その後、中隊は二キロ東に移動するが、翌日の三時二十五分、更に三発の射撃を受けた。
・以上の報告を受けた牟田口廉也連隊長は、四時二十分、戦闘開始を許可するが、不拡大方針で中国側に派遣されていた軍使一行が到着し、攻撃を思い止まらせ、部隊は隠忍自重を堅持した。
・この隠忍自重を臆したと誤解した中国兵は、俄に凶暴となり、部隊に猛射を浴びせてきた。ここに至って我が軍は、七月八日午前五時三十分、反撃に転じ直ちに敵を撃滅して付近を平定した。廬溝橋事件の実態だ!
・廬溝橋における日本軍への突然の銃撃は、中国共産党の指令によって仕掛けられた。
・その後、日支両軍による停戦協定が成るが、三週間後の七月二十九日、通州において、中国保安隊によって大規模な日本人虐殺が行われた。猟奇の惨殺だった。
・日本側が如何に不拡大と和平を求めても、それは挫折し、支那における戦禍が止まらないのは当たり前だった。
 相手が、「内乱から戦争へ、戦争から革命へ」そして「政権は銃口から生まれる」という戦略を廬溝橋で開始したコミンテルン中国共産党だ。
中国共産党の政権は、「謀略(ウソ)と銃口」から生まれ、「謀略と歴史の捏造」によって維持されている。
・中国人は、ウソをつくのは悪くない、騙される日本人が悪い、と思っている。








〜〜〜関連情報<参考>〜〜〜
習近平のウソ、朴槿恵のウソ    
西村眞悟  2014.07.09
 七月七日で、昭和十二年の廬溝橋事件から七十七年が経過した。七十七年前の七月七日から日華事変が始まる。
  何故、戦争ではなく事変なのか。その訳は、日本軍が戦う相手が、国家ではなく、国民党の軍隊、共産党の軍隊そして軍閥や共産パルチザンや匪賊だったからだ。
 つまり、その時の大陸の情況は、内乱状態だったのである。
  丁度、クルト人の軍やイスラムシーア派の軍やイスラム過激派の軍などが入り乱れる今のイラクに、アメリカ軍地上部隊が邦人保護や石油地帯の施設保護の為に入った情況だと思えばよい。
 そこで、七十七年前、 支那におけるこの情況から、戦争を起こし、戦争から共産革命に持ち込む戦略を実践した組織があった。それは、スターリンが指導するコミンテルンと、 毛沢東が指導する中国共産党である。コミンテルンは、各国共産党に、「内乱から、戦争へ、戦争から革命へ」という闘争方針を指令し、 毛沢東は、「政権は銃口から生まれる」という方針を実践しようとしていた。そして、コミンテルン毛沢東中国共産党も、その「戦争」の相手を日本に絞ったのである。
 この引き金が、廬溝橋事件である。
 その概要は次の通り。まず、明治三十三年(一九〇〇年)に支那で勃発した義和団による排外運動から北京の欧米各国人を救出する為に出兵した欧米列強と日本は、義和団鎮圧後に、支那駐留権を得て軍隊を駐留させることとなった。 現在で言うPKOである。
  昭和十二年七月七日夜十時四十分ころ、廬溝橋北側の左岸荒蕪地での演習を終えた日本軍の中隊に対し、突如数発の銃弾が撃ち込まれた。
 この時、中隊長や小隊長等は、堤防と廬溝橋城壁の中の中国軍との間で懐中電灯による点滅信号が交わされているのを目撃する。
 そして、再び、十数発の銃弾が撃ち込まれてきたので、部隊は「伏せ」の姿勢でこれを避けた。その後、中隊は二キロ東に移動するが、翌日の三時二十五分、更に三発の射撃を受けた。
  以上の報告を受けた牟田口廉也連隊長は、四時二十分、戦闘開始を許可する。しかし、不拡大の方針で中国側に派遣されていた軍使一行が到着し、攻撃を思い止まらせ、部隊は隠忍自重を堅持することとした。  
  然るに、その我が軍の隠忍自重を臆したと誤解した中国兵は、俄に凶暴となり、部隊に猛射を浴びせてきた。ここに至って我が軍は、七月八日午前五時三十分、反撃に転じ直ちに敵を撃滅して付近を平定した。
 これが廬溝橋事件である。
 なお、この廬溝橋における日本軍への突然の銃撃は、中国共産党の指令によって仕掛けられた。その後、日支両軍による停戦協定が成るが、三週間後の七月二十九日、通州において、中国保安隊によって大規模な日本人虐殺が行われる。
 それは、支那人特有の悪獣も及ばぬ猟奇の惨殺であった。そして、和平工作は挫折し、戦禍は上海から南京に移ってゆく(以上、中村粲著、「大東亜戦争への道」より)。  
  相手が、「内乱から戦争へ、戦争から革命へ」そして「政権は銃口から生まれる」という戦略を廬溝橋で開始したコミンテルン中国共産党なのである。
従って、我が軍と政府が如何に不拡大と和平を求めても、それは挫折し、支那における戦禍が止まらないのは当たり前である。
 それから、七十七年が経った七月七日、
  習近平国家主席は、廬溝橋近くの「中国人民抗日戦争記念館」で開かれた式典に出席し、「中国は侵略の歴史の否定や歪曲、美化を決して許さない」と述べるとともに、「抗日戦争や反ファシズム戦争の勝利からまもなく七十年となる今日も、依然として確固たる歴史の事実を無視し、戦時中に犠牲となった数千万の罪のない命を無視する者がいる」と暗に日本を非難した。
  中国政府は、「抗日戦争勝利」から七十年となる来年を前に、党機関誌、人民日報や中国中央テレビなどの国内メディアを通じて反日感情を刺激し、愛国心を鼓舞する宣伝を展開している(以上、産経新聞、七月八日朝刊)。
 これこそ、二十五年前の六月四日の天安門事件とそっくり同じの歴史の捏造であり、天に向かって唾を吐く所業である。
  即ち、中国共産党の政権は、「謀略(ウソ)と銃口」から生まれ、「謀略と歴史の捏造」によって維持されているのである。
  従って、このような国家に未来はなく永続もない。そして、支那における次の政権は、必ず今の政権の逆を云うことになる。
 これが、支那中国なのだ。
  即ち、次の政権は、中国人民に対して暴虐の限りを尽くし、数千万人の人民を虐殺したのは、中国共産党である!と、人民に主張し宣伝する。

 なお、現在、中国各地においては、人民の怨嗟の感情が無差別のテロとなって表れ始めている。この国内事情に炙り出されるように、習近平主席は、「反日宣伝」にいそしみ始めた。韓国にはガールフレンドもできた。
 まず、本年初め、彼は、今年を日清戦争から百二十年の年と位置付け「日本軍国主義勢力と闘争する年」とした。
  一月、ハルピン駅近くに、我が国の維新の元勲伊藤博文を暗殺した朝鮮人安重根の「記念館」を建てた。国内にテロリストの記念館を建てたのだから、そのうち、彼がテロリストと非難しているウイグルチベットの勇者の記念館を建てることになるだろう。これは良いことだ。
  二月、十二月十三日を、南京大虐殺犠牲者哀悼の日と決めた。
  三月二十八日、ドイツを訪問して、日本軍は中国人民三千五百万人を殺傷し、南京で三十万人を虐殺したと演説した。そのうえで、ベルリンのユダヤ人大虐殺記念碑の前で記者会見を開きたいと申し出て、ドイツ政府に断られた。
  四月八日、アメリカのヘーゲル国防長官が北京を訪れた際、常万全国防相に、「日本とフィリピンに軍事力を行使する用意がある」と恫喝させた。
  七月、韓国を訪問して韓国のガールフレンドと反日狂想曲を奏でた。
 そして、これから、彼の演説は、八月の我が国の敗戦、九月の柳条湖事件、上海、南京、さらに、来年の抗日・反ファシズム勝利七十年と続くだろう。
 そして、それは、みんなウソだ。中国人自身が一番よく知っている。それは、ウソだと。ただ、中国人は、ウソをつくのは悪くない、騙される日本人が悪い、と思っている。以前、台湾の恩人、李登輝先生が私に言われた。「支那人の、ウソに騙されないように」、と。