「北アルプスの富山側登山道を切り開いたのは文太郎だった」

・「北アルプスの富山側登山道を切り開いたのは文太郎だった」と言った。
白馬駅に下りたつと、眼前に右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓が岳、唐松岳、そして五竜岳と立ち並び人を圧倒する。
宇奈月方面(当時宇奈月なく、無人の地で桃原といった)から黒部側沿いの厳しい小道を伝い、黒薙温泉、祖母谷温泉をへて尾根道をよじ登る南越ルート  と、
・大黒岳へ突き上げる谷をよじ登り、大黒の尾根に出る二本松ルートがあった。
・最初は南越しルートが主力のようで、文太郎も始めは富山のほうから入山したようである。
・横沢(文太郎の次の開発業者)の代になって登山コースであり、スキーゲレンデとなっている八方尾根に牛道が切り開かれた。










〜〜〜関連情報(参考)〜〜〜
眼前に白馬岳、杓子岳、白馬鑓が岳、唐松岳五竜岳   
古沢襄  2016.01.03
 お正月のお屠蘇気分が抜けない。信州・上田の従妹が送ってくれた赤いビンの真田酒三本を長女と次女のご亭主と飲み干した。
  戦時中に母の里・上田に疎開して、旧制上田中学の一年から四年までいた。10日からNHKの大河ドラマ真田丸」が始まる。いまから楽しみにしている。
真田は関東の徳川軍を上田で待ち受け、苦杯を舐めさせた。真田の兵は日本一の名をほしいままにした。
  私が学んだ旧制上田中学は真田の居宅があった。 壕で囲まれ冬はスケートで夕方まで遊んだ。 母の里に対する思いは尽きぬ。 真田に対する思いが残る。
 だが、その一方で父まで三〇〇年の歴史を刻む東北・岩手県に対する思いも残っている。むしろ東北に対する思いの方が強烈なのかもしれない。
  私の曾祖父・為田文太郎のことを教えてくれたのは、東北・釜石出身の菊池今朝和(あさと)さん。
 突然、拙宅に訪ねてきて、文太郎のことを深夜まで語ってくれた。
菊池さんは北アルプスの富山側登山道を切り開いたのは文太郎だったと言った。山岳登山家の菊池さんは資料をみせながら、「文太郎はあなたの曾祖父ですよ」と言う。
松本、糸魚川を結ぶ大糸線白馬駅に下りたつと、眼前に右から白馬岳、杓子岳、白馬鑓が岳、唐松岳、そして五竜岳と立ち並び人を圧倒する。一度は曾祖父の足跡をみてご覧なさいと私にいう。

 しばらくは菊池さんの言を借りよう。
 五竜岳唐松岳の間に小突起がある。大黒岳である。大黒鉱山は明治39年開業だが、当初は宇奈月方面(当時宇奈月なく、無人の地で桃原といった)から黒部側沿いの厳しい小道を伝い、黒薙温泉、祖母谷温泉をへて尾根道をよじ登る南越ルートと、大黒岳へ突き上げる谷をよじ登り、大黒の尾根に出る二本松ルートがあった。
最初は南越しルートが主力のようで、文太郎も始めは富山のほうから入山したようである。
 その後、白馬村の八方地区、昔で言うと細野の一農家が定宿となっていた。 横沢(文太郎の次の開発業者)の代になって登山コースであり、スキーゲレンデとなっている八方尾根に牛道が切り開かれた。
 今でも文太郎の築いた道も、横沢の築いた道も、名残をとどめている。

■為田文太郎と一族の年譜(晩年)
◆ 1898年(明治31)*中沢ヨネと再婚(明治5年生まれ)。ヨネは会津藩士の娘
        *三女シケ東京市牛込区新小川町三丁目で生まれる。
1900年(明治33) *四女トシ、シケと同様東京市で生まれる。
1901年(明治34)  *原敬逓信大臣就任を祝う在京人等による祝賀会に文太郎は出席。任大臣 祝賀会出席名簿には、職業牛乳商とある。(原敬関係文書)
1901年(明治34)   *鷲巣金山発見される。(東北鉱山風土記、和賀郡誌)
         *五女ツネ生まれる。
1902年明治35)  *鷲巣金山を為田安太外1名で経営。
        *六女フミ生まれる(海軍少将平出英夫氏と結婚)
1903年(明治36) *鷲巣金山を為田安太、個人経営で営む。
         *長女ヒテ、婿養子の小川大助(埼玉出身)と結婚。二人の間の子が 為田大五郎氏(為田英一郎氏の父親)
1905年明治(38)   *四男巳三夫生まれる。
         *三男荘吾死亡。三女シケ死亡。
         *次女トヨ、古沢善五郎長男、古沢行道と結婚。二人の間に生まれた子が、後のプロレタリア作家古沢元。

1906年明治(39)  *為田文太郎鷲巣金山を継承。
          *大黒鉱山を経営(富山県地籍、北アルプスの黒部奥山、フミさんの話では、四男の巳三夫さん身体が弱かったため、転地療法を兼ね信濃大町に一軒家を借り暫く家族で住んでいたそうである)。
  *為田大五郎氏生まれる。朝日新聞文化部記者 河北新報論説委員
 *文太郎、玉泉寺に雪江筆の「三尊十六羅漢」大掛け軸を寄進。(一点山玉泉寺物語・古沢襄著)
1907(明治40)   *古沢玉次郎生まれる(後の作家古沢元)。
◆ 1909年(明治42)*冬の大黒鉱山で越冬していた16名中6名が死亡するという惨事が起きた。これは新鮮な野菜不足からくる壊血病であった。偶然か生存者は 和賀郡内7名、秋田県1名と富山出身の両親を失った3歳の女の子であった(当時この病気は解明されては居なかった)。
      *鷲巣鉱山一体に大洪水発生、設備等に被害甚大。
      *古沢行夫生まれる(後の漫画家岸丈夫)
◆ 1910年(明治43)  *長男為田文造、青森出身の小川ふみと結婚。
1911年(明治44)   *長男文造に長男清一うまれる。
1912年明治(45年)  *長男文造(理学士、東京帝大卒との情報もある)朝鮮から帰着直後、牡蠣にあたり死す(毒殺との噂もあったとか、この後為田家では牡蠣を食べないそうである)。
        6月30日 為田文太郎、火薬調合中タバコの火が引火、火焼死したと伝えられる。
北アルプスでの遭難史上で最大の大黒鉱山悲劇  菊池今朝和 2013.09.16 Monday name : kajikablog
北アルプスの山岳史の研究家・菊池今朝和さんから、四年前に「大黒鉱山をめぐる人々」という記事を三回に分けて投稿して頂いている。
菊池氏とは不思議な縁で結ばれた。私の曾祖父に当たる為田文太郎氏(沢内村の初代村長)が北アルプス開発の先駆者だと言って拙宅に訪ねてきた。曾孫の私が何か資料を持っていないかと尋ねられた。
文太郎は万延元年七月二十三日に西和賀町沢内新町の旧家で生まれた。鈴木コトと結婚して長女ヒテ、長男文造、次女トヨ、次男荘吾をもうけた。ところが大変な艶福家で俗にいう七竈(かまど)、七人のお妾さんがいた。北は青森から福島、千葉、埼玉。南は神戸。
菊池さんとの一夜は、七竈(かまど)論でおおいに盛り上がった。文太郎は日本でも有数の金鉱山「鷲ノ巣鉱山」(岩手県)を経営しているが、その後、北アルプスの大黒鉱山の開発に着手している。大黒鉱山は豊富な銅資源に恵まれ、足尾銅山(栃木県)を上回る鉱脈がある点に着目している。
だが明治45年6月30日、大黒鉱山の近くの古小屋鉱山(新潟県)で、文太郎は火薬を調合中に引火事故で急死してしまった。孫に当たる古澤元が五歳の時であった。だから私にとって大黒鉱山は不吉な山としか思えない。父の思いも同じであった。
「大黒鉱山をめぐる人々」は丹念に史実を追い求めた力作なのだが、私は痛恨の思いが残る複雑な心境で読ませて頂いている。それが16日の杜父魚ブログで多くの読者からアクセスして頂いた。
読者の関心を喚んだのは、明治42年に発生した大黒鉱山の惨事なのだろう。この年の冬に採夫40名余りが下山したが、15名が餓鬼谷の鉱山小屋で越冬している。
正月を過ぎた頃、体調を崩す人が続出して殆どの越冬者が寝込む事態となった。原因は野菜の摂取が出来ない閉ざされた山で脚気に冒された鉱夫が続出し、多くの死者を招いている。
力仕事の鉱夫のために越冬用の白米は用意されたが、野菜は前年の11月までに食い尽くされていたという。北アルプスの遭難史上、これだけ多くの死者が生じたのは初めてであった。

■大黒鉱山をめぐる人々①②③ 菊池今朝和
北アルプス大黒鉱山開発の端緒 
 大黒鉱山は八方尾根を登り、唐松小屋から祖母谷温泉に二時間ほど下った所にあり、餓鬼谷の左岸には坑口が穿たれ、登山道沿いの台地には事務所や精錬所などがあった。今でも坑口は三地点で十数ケ所余り確認できる。
 また、主要設備のあった台地には朽ちた柱や製錬した後の不純物、踣(からみと読みスラグとも)が小山と積まれおり、餓鬼谷沿いには石垣や索道の部品なども流れの中に晒されている。
大黒鉱山という名は、信州側からみて大黒岳の裏手の鉱山ということで名付けられたが、実質の位置関係は、餓鬼谷左岸から五竜岳に向って掘られている。
鉱山は地元の猟師によって明治39年に発見された。日本山岳会の機関紙『山岳』の明治42年発行版に「案内人の松沢菊一郎が大黒鉱山を発見した」とあるが、鉱業法によるところの、試掘願いには中村兼松他二名とある。
 その後、中村等は鉱業権を日本でも有数の金鉱山「鷲ノ巣鉱山」を経営する為田文太郎に売却する。
白馬村史によれば人夫一日三十銭という当時、売却額は一万余円だったという。売却の経緯は不明だが、当時創業していた白馬銅山の経営者とは為田は旧知で、そのつてだったかも知れない。
大黒鉱山は為田文太郎を手始めに五人の経営者に受け継がれ、大正13年まで中断を含みながらも採鉱され、翌年には鉱業権は抹消されるが、紙数の関係でこの稿は大正のはじめ迄で筆を措く。

◎為田文太郎時代の幕開け
 為田文太郎は万延元年、岩手県和賀郡沢内村の富農に生まれ、明治22年初代沢内村長に選ばれる。その後県議に転進するが、政治に見切りをつけ、父親の安太の手がけていた鷲ノ巣金山の経営に手腕を発揮する。
「売り上額、月々四〜五〇〇円の小山を三年余りで、日本有数の金山、月産三貫目以上の鉱山に育てしまった」(和賀新聞)。明治39年には、為田は父安太から鷲ノ巣金山の経営権を継承する。いわば羽振りのよい時に、大黒鉱山の話が持ち込まれたのであった(和賀郡史)。
明治39年北城村(昭和31年神城村と合併白馬村となる)森上の「かぎ丁」旅館と黒部川下流の交通の要衝、舟見町(現入善町、当時宿場町)の旅籠に、「鷲ノ巣金山為田礦業所」と染め抜かれた印半纏を羽織った人達が現れた。
翌年の開坑にそなえての下見であった。折り良く黒部側沿いの道は、明治34年から林業促進のため、内山村から祖母谷まで開鑿され明治37年完成していた。
鐘釣までは六尺幅(約一八〇㎝)、そこから祖母谷迄は三尺幅(約九〇㎝)の小径であった。この難路は四年かけ、総工費四五、二五八円で開通した。さらに鉱山開発にとって幸いしたのは、明治38年に魚津町の豪商、廻船問屋の朝田新兵衛によって祖母谷温泉が開湯されたことであった。
客室棟や浴室棟、さらに露天風呂があり、運動場にはブランコ、鉄棒などが備わり、食品など日常品は毎日荷揚げされ現代の健康ランドのような施設だった(下新川郡史)。さらに記録はないが、官林見回り路として南越までは道ができ、稜線までは踏査されていたと確実視される。
白馬村側からはまず大黒岳を乗り越し、事務所、精錬所予定地までの道作りが始まった。道は平川の左岸伝いにつけられ、途中で橋を渡りやや登った平地に、物資の仮置き場と休憩所を兼ね平川倉庫が建てられた。萱で囲った簡単なものだったが、充分雨風を凌いだ。
道は整備されここまでは馬が通った。明治25生れの倉科きしは「子供のころお転婆でね、馬を扱えるので、毎日下の事務所と平川倉庫の間を馬に荷を付けて行ったり来たりしていた。あるとき為田文太郎さんが山から降りてきた時、どこか細野に泊る所ないかと聞かれたので、家ではどうかと云ったら、気に入って、それからは為田さんが鉱山に来ると、いつも泊った」と語った。
また為田文太郎の写真を見せると「わぁー為田さんだ」と、相好を崩し、「そういえば為田さんから頂いた小物入れがあるはずだ」、さらに「為田さんのお妾さん、おキミさんと云ってね、大黒岳の急な雪渓で滑り落ち、それからはあの雪渓のことをおキミ落としていうだ」と、九〇歳の倉科さんは、つい昨日のように話した。
さて、話は戻り、平川倉庫から沢を越え、二本松尾根を登り途中から雪渓に移り最後にガラ場を詰めると大黒岳の肩に出た。そこから尾根に入り、途中から沢伝いに下ると、事務所にでた。おおよそ一〇時間強の行程であった(『山岳』明治43年版)。

道造りに並行し建物の建設がはじまった。明治42年発行の下新川郡史に「現今、幅四間、長さ二十間、高さ三間の製錬所あり、その他幅三間長さ一〇間、二階建てなる宿舎、及び幅三間長さ八間の倉庫あり、五十人の坑夫は常に作業に従事せり、明治41年に於いて八百貫の銅を製錬せりと云う」と記述している。
人の背で物資、資材を運搬するこの時代、最大の困難は製錬炉の運搬であった。平川の辺まで馬車で運ばれ、その先は人力であった。当初、私は現地で耐火物を組み立ていたと推定していたが、故老から「炉の下に丸太をコロがわり入れ、人力で引き上げた」(丸山五郎ェ門、大3生)と聞いた。
 丸山さんの見たのは大正7、8年頃かも知れない。坑口を調査中、銅が付着した鋳型と、半分に割れ大黒の点の部分が残った鋳型を製錬所近くの藪のなかから発見したが、完品の鋳型は三〇Kgあった。鋳型で台形状に鋳込まれた粗銅は(当時の製錬技術では純度の高い銅を作るには限界があった)金色に輝き、八貫目(約三〇Kg)の重さで、大黒と印刻されていた。
◎越冬中の大惨事
このように順調に鉱山開発が進むが、三年目の明治42年、大黒鉱山は危機に見舞われる。三月三日、餓鬼谷の鉱山小屋に越冬中の一人の坑夫が、決死の覚悟で雪と氷の唐松岳を越え、八方尾根伝いに村里へ駆け下り救助を求めてきた。
秋田出身の熊谷要助(35歳)だった。前年の17名に続き、建物の保守等で、40名余りの人夫が下山した後、15名が越冬していた。前年の越冬は順調だったが、この年は、正月を過ぎた10日頃より体調を崩す人が続出し、二月も末になると殆どの越冬者が寝込んだ。
2月24日、富山出身の秋田林蔵(22歳)が奥さんを残し逝った。四日後の28日には、15歳の林蔵の義弟の林平も後を追った。足はむくみ、次第にその症状は上に上がり、腹部が膨れ、苦しんで亡くなるという病だった。
体調の良かった熊谷要助は、支配人で岩手出身の高橋浅太郎(54歳)に相談した。高橋は妻(53歳)と娘(14歳)を伴って越冬していたが、高橋も妻もすでに発病していた。かろうじて娘だけが症状が出ていなかったが、殆どは臥せ、死を待つといった状況だった。
三月初めとはいえ、厳しい北アルプスの奥深い谷底である。熊谷要助は好天を待って、細野部落に下ることを決意する。充分な装備を持たない坑夫が、餓鬼谷から唐松岳へと尾根伝いに登り、八方尾根の取り付きの急崖を命がけで下り、あとは尾根通しをひたすら細野部落めざし駆け下りた。
早速、悲惨な状況は麓の鉱山事務所、警察(北安曇郡北城分署)など村人に知らされた。村人は大いに驚き救護隊を組織したが天候が悪く出発は6日となった。熊谷要助の説明により地元の医師は脚気病と判断し、脚気の薬と野菜類の他ミカン、牛肉、杏の缶詰を準備し、隊員6名は鉱山小屋めがけて登った。登ってみると、越冬者の病勢は悪く死の淵をさ迷っていた。
手当をなす術もなく、これでは雪解けまでは全員の命はもたないとの結論に達した。ひとまず6名の救助隊員は後ろ髪を引かれる思いで下山した。早速、巡査の金生塚蔵を責任者に救助隊が組織された。隊員は麓の鉱山事務所から3名、それに屈強な強力15名が選抜され、隊員は19名となった。
これだけの大規模な救助隊結成は、北アルプスでの遭難史上初めてではないかと思われる。翌3月12日、午前四時19名の救助隊は村を出発した。この救助登山はかなり困難を極めた。
八方尾根は名うての風の通り道、筆者も冬季八方池山荘で二シーズン働いたが、三月初めとはいえ山は厳しい。途中風雪に翻弄されながらも唐松岳を越え、12時間掛け午後4時やっと白一色の台地に着いた。
しかし、一〇mを超える積雪のため、二階建ての屋根も見えない有様だった。そこで小高いところをめがけ、二ケ所から試し掘りをはじめたら運良く、鉱山小屋の二階の窓に突き当った。
雪倉のような室内は真っ暗闇で、先頭の金生巡査は提灯を点けて内に入ると、生存者は全員原因不明の病気に罹り「気息奄々生気なく・・もの言う力もなくして提灯の明かりを見詰め感謝の意を涙に表わせる」といった惨状だった。
二階、一階と小屋内を調べると、死者は増えていた。残念なことに救助隊が入山した日に、富山出身の山本由太郎(32歳)、同妻のもと(30歳)、さらに秋田出身の佐々木梅之助(28歳)が新妻を残し亡くなっていた。
また翌朝には秋田林蔵の妻ひさ(24歳)も夫の後を追った。若い越冬者がつぎつぎに亡くなったが、ひときわ涙を誘う光景があった。金生巡査が生存者の数が合わず、高湿度と死者の臭気に堪えて二階、一階と上下して眼を凝らし、再度階下に降り仔細に観察とすると、炬燵と思っていたのは遺体であった。
救助隊の仲間を呼ぶと、驚いたことにその遺体が動き出した。隊員の驚きをよそに、その死体の腋から幼い女の児が這い出してきた。その日亡くなった、山本由太郎夫妻の娘はな5歳であった。
幼女が入り込んでいたのは、温もりが消えつつある父親の亡骸であった。6名の遺体は箱に入れ近くの雪原に埋められた。翌日は天気が悪く鉱山小屋に逗留した。翌14日未明、救助された6名と救助隊の19名は助け合いながら、半日掛け麓まで下山した。
五歳の幼女は、強力の背に負われ下山した。遺族の懇願もあり、北城警察分署は役場の力も借り遺体の発掘隊を四、五月と計画したが、残雪の影響等で延び延びとなっていたが、6月7日漸く出発となった。
羽生巡査を責任者に、地元の強力8名、それに62歳と高齢の北澤医師が死体検案のため参加した。遺体の識別は毛髪の長短で行い、携帯した箱に詰められた。翌日強力達の背で遺体は夜の八時に里に下り、9日火葬にふされ親戚等に遺骨は渡された。
病名について、北澤医師は脚気と推定したが、救助された高橋浅太郎は「今度の病気は多分野菜を喰わなかったからだと思います。昨年11月までには大方野菜を喰い尽して」と語っている。(信濃毎日新聞、富山日報、高岡新報)
さて、ここで被災者達のその後を辿ってみる。両親を一度に失った5歳の児は、一時危篤状態だったが、親切な村人の看病で元気を取り戻し、迎えの伯父と父の生家に帰った。昭和56年夏、黒部市の僧ガ岳の麓にある、5歳の児の父の生家を訪ねた。
従兄にあたる山本重太郎翁は「よく覚えている、べそ掻きながら叔父さんに連れられてきた。胸に名前を書いた札を付けていた。結婚して下の村で暮らし、一人息子がいたが、60を過ぎたころ亡くなった」と語った。
その息子さんに会うと「母は昔のこと一切話しませんでした。無口で、静かな母でした。私が弱いので気遣い亡くなりました」と写真を見せてくれた。写真には小柄で穏やかな顔のはなさんが、もんぺ姿で佇んでいた。
秋田林蔵さんの身内は入善市に住んでいた。「遺体を火葬にしたからお骨を受取りに、と連絡あったけれど、当時家は大変な貧乏で、遺骨を取りにゆく交通費もなく、現地に埋葬してくれと連絡したと親から聞いています。親も私等もズート気になっていました」。この後、秋田さんご夫妻は、白馬村長谷寺を訪ね回向をとげ、積年の肩の荷を降ろした。
無事生還した一人の岩手湯田町出身の高橋常蔵(当時18歳)は、その後も鉱山で働き、戦後は伊豆の鉱山を渡り、西伊豆の静かな海沿いの町で家族に見守られ亡くなった。